第1章① あの夏のブチャ〜ガリーナ〜

世界の果てのあなたへ
  • あの夏のブチャ

第一章 あの夏のブチャ

あの夏のブチャ ウクライナ ブチャ 6月

 ふと、目を閉じると、キャッキャッ、キャッキャッと子どもたちが笑う声が、頭のなかに響きわたる。

そして、晴れわたる青空、その空の下、ブチャ中央広場で、子どもたちが遊びまわる光景浮が浮かんでくる。あの光景こそが、わたしにとってのブチャだった。

 ブチャ中央広場の地面から、透き通おった透明の水が、天めがけて立ちのぼる。水がうっすらと地面を覆い、地面は鏡のように澄んだ青空を映しだしている。鏡状の水が写す青空の上を、ブチャの子どもたちは青空を飛ぶように、キャッキャっと笑いながら、風のように駆けぬけていった。

ピンクの短パンを履いた、目のぱっちりした少女ナスチャ。ああ、忘れもしない。ブチャの少女ナスチャ。彼女は、友達の青いキャップを被った少年と、地面から天に伸びる水柱を避けたり、互いに水をかけあったり、あるときには自らダイブして水を全身に浴びていた。そんな風にして、あの夏、ブチャ中央広場の噴水で、子どもたちは笑いあっていた。友達と水を掛けあい、追いかけっこをする、それ以上に大切なことなど、この世界のどこにもありはしない。あの子どもたちの笑顔は、そう、大人たちに訴えかけているようだった。

子どもたちは日が暮れるまで、噴水のまわりを飽きることなく走りまわって、ケラケラ、ケラケラと声を上げて笑っていた。その光景は、戦争や虐殺の街とは、遠くかけ離れていた。

世界にとってブチャは特別な街だった。

虐殺の街ブチャ、世界各国から注目される政治的シンボルだ。世界各国、国連、N P O、ジャーナリスト、ロシア人、政治利用しようとする胡散臭い人たち、ウクライナを侵略したロシアなど、いろいろな国、組織や人々から、ブチャはいろいろなことを言われる。事実からフェイクまでいろいろなことが言われ、そのまわりには、いつも人間の業がつきまとう。

わたしにとってもまた、ブチャは特別な街だった。

しかし多分、わたしにとってのブチャは、ほかの多くの人々や団体と違う意味での特別な街だった。わたしにとってブチャは、忘れることのできない、大切な街なのだ。

ロシア軍がウクライナに軍事侵攻を開始した2022年。あの夏の3ヶ月、わたしは、ほとんど毎日ブチャに通いつめていた。青空の下の真っ白なユニセフテント、テントのなかで、いつもグッドポーズをしてきて、ウクライナ語で話しかけてくる少年。爽やかな夏の風に、ショートカットの黒髪をたなびかせながら、笑顔で話しかけてくるガリーナ。そう、ガリーナ、わたしが世界で一番尊敬している女性だ。彼女たちや子どもたちがユニセフテントにいた、あの夏のブチャの光景こそが、わたしにとってのブチャだった。

ブチャはあれこれ言われることが多く、ゆがめられた話も多い。わたしがウクライナに行ったと知ると、一部の人は絡んでくることがある。「嘘つきめ、なにが真実かしっかり話せ」。とか「本当にニュースで見るほど酷いことになっているの?」。「ロシアに住んでいた素晴らしい音楽家の知り合いがいるが、ブチャ虐殺を嘘だと言っている」、とか、ネットであれ、現実であれ、上から目線で、そのようなことを言われることは少なくない。もし、次にそのような絡まれ方をされることがあれば、中指を突き立てて、こう答えるほかない。あの夏、わたしが垣間見たブチャの人々の生き様こそが、ただ一つの、わたしにとってのブチャの真実だった、と。それ以外の偏見や政治的な意見など、糞食らえだと。

わたしにとっての大切な街ブチャ。しかし、そんなブチャに2022年3月、悲劇が襲いかかる。ブチャはロシア軍の侵攻により破壊され、多くの罪なき市民は虐殺された。ブチャでのロシア人による民間人虐殺は世界的に有名だ。あの夏、いや、今もまだブチャの人の心は、深い悲しみ、絶望と疑心暗鬼というドス黒い雲に覆われている。

そんなウクライナ、悲劇の街ブチャ取材を始めて1ヶ月。言葉の壁があり、あまり話をしたことはないが、顔見知りで、ブチャ取材で一番写真を撮影した女性がいた――彼女の名前はリーザ。ブチャのユニセフテントで、子どもたちの世話をしているスタッフだ。

彼女は、太陽のように光り輝くオレンジ色の髪をしていた。あの夏、彼女は、オレンジ色の髪をなびかせて、にぱあっと白い歯見せて、少年のように笑っていた。彼女のまわりにはいつも、たくさんの子どもたちが集まる。わたしは、リーザのまわりに子どもたちが集まり、みんなで腹を抱えて笑っている様子を見るのが、なによりも大好きだった。

わたしがなぜウクライナ、ブチャに行ったのかと言われれば、世界の理不尽に納得できなかったから、ということと、晴れわたる空の下、リーザと一緒に遊び、天使のように笑う子どもたちの姿を目に焼きつけ、その写真を撮影するためだったのだと、いまなら思う。

ブチャの傷ついた子どもたちは、リーザと遊んでいるとき、口を大きく開けて、手を叩き、腹の底から声を出して、本当に生き生きと、楽しそうに笑っていた。光り輝くオレンジ色の髪のリーザと、子どもたちの笑顔を見て、わたしは、まるで、リーザは太陽のようだと思った。この世界を照らす太陽を囲む、天使のような笑顔の子どもたち。それは、わたしにとって、世界一美しい構図だった。

だからわたしは、あの夏、無我夢中で彼女や子どもたちの写真を撮り続けていた。

しかし、いつだってこの世界は、やさしい罪なき人々に牙を向ける。いや、この世界ではなく、人間の悪意が、というべきだろうか。リーザもまた、戦争により人生を歪められてしまった、一人だったのだ。

ガリーナ ウクライナ ブチャ 6月

ブチャ虐殺

2022年3月、ロシアのウクライナ侵攻により、キーウ近郊の街ブチャやホストメル、その他の村々はロシア軍により占拠された。

激しい戦闘でブチャ近郊の町や村々は破壊され、多くの民間人が負傷し、死亡した。ウクライナ検察当局によると、ブチャでは419人もの亡くなった犠牲者が発見された。

アルメニアでのナゴルノ・カラバフ難民取材を終えたわたしは、春の取材(2022年4月から中東の少数民族取材をする予定だった)へと備え、日本でナゴルノ・カラバフ取材をまとめつつ、住み込みのバイトをしてお金を貯めていた。

そんなとき、ロシアによるウクライナへの侵略が開始された。

ニュースで流れる街を襲う爆撃、逃げ惑う人々、不気味に鳴り響くサイレン、そんな映像に胸が張り裂けそうな思いになった。ウクライナからの難民の数は、2022年3月には300万人を超えた。アルメニアでナゴルノ・カラバフ難民の人たちの声を聞いたものとして、ロシアの軍事侵攻を許すことなどできるはずがなかった。また戦争が始まるのかと、失意にも似た感情を覚えた。しかし、だからこそ現地の人々の声を伝える必要がある。そう考えたわたしは、2022年4月、春の取材予定を変更して、ウクライナ難民を取材するためにハンガリーへと赴むき、ウクライナ難民を取材した。そして、ハンガリーで仲良くなったウクライナ難民の家族がウクライナの首都キーウへと帰還することになり、彼女たちが家族や恋人と再会する瞬間を撮影するために、ウクライナ、キーウを訪れ、虐殺の街ブチャを訪れることになる。

6月初頭 悲劇の街ブチャ 取材初日

戦時中とはいえ、ウクライナ首都キーウの街はささやかな平穏に包まれていた。サイレンが毎日鳴り響くも、人々はさほど気にする様子もなく、公園でヴァイオリンを弾いたり、ベンチでおしゃべりをしたり、犬の散歩をしたり、ロシア軍のキーウ地方からの撤退により、わずかに取り戻した日常を謳歌していた。夕方に公園では20人ほどの人が集まり、音楽にあわせて踊りを踊っていた。人々は戦争に不安を感じつつも、首都キーウで、戦争が始まる前と同じ暮らしを送ろうと努めていたのだ。

いや、戦争が起きようとも、どんな悲劇が起きようとも、人々は生き続けるしか、生活し続けるしかない。そうしなければ、無様に死ぬしかないのだから。

キーウ近郊ブチャへ続く道。

キーウからわずか20分ほどバスで進むと、景色は一変した。車窓の向こう側、街は、破壊されていた。屋根、窓ガラスがない家、穴が空いた壁、崩壊した黒こげのスーパーマーケット、焼け焦げた看板、あまりにも大量の瓦礫、瓦礫、瓦礫の山が辺りを覆い尽くしていた。その光景はまさに、地獄だった。

戦争で荒廃した街の姿があまりにも現実離れしていて、心臓が深い穴に堕ちていくような、背筋が凍るような気持ちになった。ニュースではいくらでも見てきた光景だったが、実際に目の当たりにしたその光景に言葉が出なかった。まるで、映画のなかに迷いこんだかのような気持ちだった。目の前に広がる破壊し尽くされた街が、首都キーウからわずかバスで20分の場所に存在することが、信じられなかった。キーウ州にブチャがあることは知っていたが、3月の時点で、こんなにもウクライナの中枢近くにまでロシアの戦車が迫っていたという事実を目の当たりにして、わたしは、恐怖すら覚えた。

バスはブチャ中心部にたどり着く。一見きれいなビルやスーパーの前でバスを降りると、ツンと鼻につくゴムが焼けたような、焦げた臭いがした。それは紛れもない、戦争の臭いだった。

ロシア軍がブチャを撤退したのは1ヶ月も前だというのに、戦争の臭いが、いまだにブチャの街にこびりついていた。ビルの窓ガラスはほとんど割れ、所々黒こげになっている。目の前の道路は放射状にえぐれ、奥のビルは焼け焦げた廃墟と化し、隣のスーパーの屋根がえぐられている。酷い有様だった。このような行為が人間の手によって行われたというのか……。そんな事実が信じられなかった。それが、わたしが破壊された街なみを見て最初に感じたことだった。

破壊された、どこか歪な街並みの頭上には、美しい青い空が広がっていた。自然はこんなにも美しいというのに、人間は……。

大きく息を吸い、深呼吸して、少しだけ心を落ち着かせる。いや、人間だからこそこんな愚かな真似ができるのだろう。鼻から吸った戦争の臭いが、目頭の付近にこびりつく頃、そんな考えが頭をよぎった。

「####################」

物思いに耽っていると、急におばあさんが話しかけてきた。ロシア語かウクライナ語で話しかけてきたが、取材初日で、英語ができる知り合いもいなかったため、なにを言っているかがわからない。最初は、撮影していることを注意されているのかと思っていたが、どうやら違うようだ。

おばあさんは、「ロシア人!!」とロシア語で何度も口にして、なにかを身振り手振りで必死に訴えてきた。グーグル翻訳を使って話を聞くと、どうやら彼女は、ロシア人に暴力を振るわれて、首を締められたと必死に訴えているようだった。何とか理解できたのは、それだけだった。彼女のメガネの奥から覗く瞼は、赤く腫れていた。もしかしたら彼女は、ロシア兵に殴られたのかもしれないと、そう思った。

おばあさんと別れたわたしは、街の中心部へと移動した。砲撃跡が残るアパートが密集する街の中心部には、黄金の丸屋根の白く美しい教会、聖アンドレ教会が建っている。教会の裏には、美しい青空の下、鉄で形作られた十字架のモニュメントがひっそりと佇んでいた。モニュメントの前には、たくさんの花束が供えられていた。

その美しい花束は、死者に手向けられたもの。

その場所には、ロシア軍により虐殺された150〜300人の人たちが埋められていた、集団墓地があったのだ。晴れわたる青空の下に、ロシアの軍事侵攻で命を落とした人々が、眠っていた。首がない死体、体がありえない態勢に曲がった死体、目玉が焼け、焦げた肉にめり込まれていた死体も存在した。すべての死体に暴力の跡が存在したという。この教会は、ブチャの悲劇の象徴的な場所だった。彼らがどんな経験をしたのか想像することすらできないが、せめて、安らかに。わたしにできるのは、ただ美しい青空の下、彼らに、そう祈ることだけだった。

ひととおり街の中心部をまわり、ブチャからキーウへ帰るためバス停へと向かおうと決め、ブチャの中央広場に立ち寄ると、白い半球状の物体が目に入ってきた。

行く当てもなく漂う白い雲、どこまでも晴れ渡る青空の下、半球状の白いテントは、陽の光を反射して、白くキラキラと光り輝いていた。その白く輝くテントのまわりで、ブチャの子どもたちは、走りまわったり、自転車を漕いだり、簡易ソファーに座りおしゃべりをしていた。

それは、ありふれた平和な街の穏やかな光景だった。しかし、とてもとても美しい光景で、そのありふれた光景に、わたしの目は奪われ、なぜだか胸を打たれた。

ブチャに来てから衝撃を受けるような光景が多かったが、中央広場だけは、ブチャのほかの空間から断絶されているかのようだった。白いテントのあるその空間の空気は、神聖で、荘厳だとさえ感じた。

次の瞬間、わたしの頭のなかを一筋の光がよぎった。

そして直感した。このとき、なにを直感したのかわからなかったが、たしかになにかを直感していたのは間違いない。いまにして思えば、この場所からブチャでの取材が始まると、潜在意識か、心の奥底でそう感じていたのかもしれない。

目の前にあるブチャ中央広場の光景は、ニュースで見てきた虐殺の街とあまりにもかけ離れていた。

あまりにも神秘的な瞬間で、子どもたちが走りまわるのが、スローモーションのようにゆっくりした動きに見えた。わたしは、しばらく、ぼーっとそんな光景を眺めていた。そして、わたしは白く輝くテントに惹き込まれるように、歩き出した。

それが、ブチャを3ヶ月ほど取材することになる、すべての始まりだった。

白いテントはユニセフのテントだった。傷ついたブチャの子どもたちが遊んだり、カウンセラーと話したり、心の傷を癒すためにユニセフの支援により開設された場所だ。ユニセフの支援によるテントではあったが、働いていたスタッフやボランティアは、現地ブチャ近郊の人々だった。

そしてあのとき、わたしは、ガリーナと出会った。

ガリーナは黒髪でショートカットの女性で、ブチャ近郊のハリキフカ村で、学校の先生をしていた。しかし、現在は学校が夏休みで休校なので、ユニセフのテントのスタッフとして、テントの運営やイベントを企画する仕事をしている。彼女の住むハリキフカ村もロシアに占領され、数々の悲劇が起きた。彼女もその犠牲者の一人だった。

「ブチャの人たちは、みんな話すためにここにやって来るの。ブチャの人たちだけじゃない、遠くの町や村からも人は来るわ。ずっと、コロナによる規制でみんな孤独だった。それなのに、今度はロシアがウクライナに攻めてきた。占領時代のブチャは地獄だったわ。いまも、避難した人やいなくなった人が多くて、みんな孤独を感じている。だから、みんな話をするために、このテントにやってくるの。子どもたちは、コロナや戦争で友達と遊べなかった。だから、友達と遊ぶためにここに来るのよ。友達と遊んで、傷を癒すために。子どもたちには家にいて、辛いことを思い出してほしくないわ。私自身も立ち止まって考えたくない……。だから、ここで人を助けるために働くのよ。ずっと、考えずに動いていれば、辛いことを思い出さずに、考えずにすむから」。ガリーナはさわやかで、サバサバした笑顔をしていた。けれど、その瞳はどこか、寂しげだった。

ガリーナはしばらくわたしと談笑すると、ユニセフスタッフとしての仕事に戻った。その日は一旦キーウへ戻り、次の日ふたたび、わたしはブチャのユニセフテントへと訪れた。

ガリーナは、白いユニセフテント内の、柔らかな緑の芝のような床の上にあぐらをかいて座っていた。彼女のひざのうえには、ひとりの少年が座っていた。

ガリーナと少年は、楽しそうに、目の前の丸い机の上で積み木のお城を作っていた。ああでもない、こうでもないと、ふたりで微笑んで試行錯誤し、積み木を組み立てている。ガリーナはわたしと話しているときよりも、さらにやさしい、少年を包み込むような、温かい笑顔をしていた。少年も手を動かしながら、白い歯をまんべんなく口から覗かせ、幸せそうに笑っていた。柔らかな白い光が彼女たちを包みこんでいた。あまりにも幸せそうで、楽しそうな光景で、天から白い光の筋が舞い降りて、なにか大きな存在が、彼女たちを祝福しているかのような、そんな錯覚に陥った。わたしはガリーナと少年が遊ぶ姿をしばらく眺めていた。いや、その美しい光景に目を奪われていたのだ。そして、違うと、そう思った。

報道で流れる、悲劇で嘆いているブチャの人々、新聞に掲載される、記者にお墓や廃墟の前に立たされ、泣き叫ぶブチャの人。日本の支援団体が救ってあげていると宣伝する、可哀想なブチャの人々、その姿は、自ら悲劇を乗り越えようとする彼女たちの姿とは違う。少年を包みこむような笑顔をしているガリーナの姿や、幸せそうに積み木で遊ぶこの少年の姿こそ、本当のブチャの姿なんだと、そう思った。そして、自ら悲劇を乗り越えようとする、彼女たちの逞しい姿こそ伝えなければいけないのだと――そう思った。

あの夏の3ヶ月、わたしはブチャのいろいろな面を垣間見た。悲劇も、吐き気がするほどの残酷な現実も、人間の恐ろしさや愚かしさも、怒りや憎悪や、人間の業も。

でも、いつもブチャのことを思い出すと、わたしの頭のなかに真っ先に思い浮かんでくるのは、はじめて真っ白なユニセフテントを見たときの印象と、笑顔で子どもと、積み木の城を作っていたガリーナを見たときに抱いた、あの胸が暖かくなるようなやさしさと、なぜだか涙がこみあげてくるようにも思えたほどの、あの光景の美しさだった。

「ブチャで取材をしたいんですけど、またユニセフテントに取材のために来てもいいですか?」と、わたしはガリーナに尋ねていた。そのときには、ブチャも、もちろんそうだが、この中央広場とユニセフテント、それになにより、ガリーナ自身をもっと取材したいと、そう思っていた。

ガリーナは微笑むと、「ええ、もちろん。ここは子どもだけのための場所じゃない。大人も子どもも関係なく、だれでも、いつでも来ていい場所。取材でなくても来ても構わないわ。こういう辛いときこそ、人と交流すべきだわ。そのための場所だもの」

彼女は穏やかな笑顔で、そう言ってくれた。しかし、その瞳は、この世のすべてを見透かしているのではないかというほど、儚げで、おぼろげで、やさしさと慈愛に満ち溢れているみたいだったと、なぜかわたしはそう思っていた。もしかしたら、彼女はあのとき、わたしにも手をさしのべてくれたんじゃないか? と、そう思うときがある。わたしの心の奥底の絶望や孤独、そういった闇を見抜いていて、そのうえでどこにも居場所がなかったわたしに、居場所をくれるために手をさしのべてくれたんじゃないかと。思い出すと、あのときの彼女の表情と言葉には、そう思わずにはいられない不思議な迫力とやさしさがあった。わたしは、彼女の言葉を聞いて、なぜだかホッと安らかな気持ちになり、「ありがとう」とそう答えた。その後の彼女の活躍を考えると、あながち間違いではない気がする。わたしの考えすぎだろうか?

そして、ブチャのユニセフテントはわたしにとって特別な場所になった。あの夏、取材の合間の休憩や人との待ち合わせや、インタビューに使わせてもらっただけでなく、ブチャ虐殺の遺族の取材、残酷なロシア兵の話や死体の写真、この目で見たあの腐敗した死体のトラウマに悩まされ、いつも偏頭痛と、胸の痛みによるトラウマに悩まされていた日々、束の間に訪れるユニセフテントの光景は、わたしの心を癒してくれた。

ガリーナはフレンドリーでいつも取材に協力してくれた。取材のアポ取りを手伝ってくれたし、ハリキフカ村に招いてくれて、村の現状や占領時代の悲劇の跡を見せてくれた。そんなガリーナの隣には、真っ白な服を着た長髪の金髪の少女がいた。彼女の名前はアナスタシアだ。

ガリーナはいつもわたしを助けてくれたが、英語を話すことができなかった。そこで、ユニセフテントでの通訳をたまに手伝ってくれたのが、彼女の生徒のアナスタシア(15)だった。アナスタシアはガリーナの生徒で優等生だった。いつも真っ白な服を着ている、クールな少女だった。

そして、もう一人、ユニセフテントには子どもたちの世話をする女性がいた。言葉がわからなくても、彼女は明らかに子どもの扱いが一番上手で、子どもたちがみな、彼女のことが大好きなのがわかった。彼女は、太陽のように光り輝くオレンジ色の髪をしていた。彼女の名前はリーザ。ブチャ出身の19歳の女性だ。

なぜか、リーザと子どもたちが笑っているとき、彼女たちを包みこむ空気は、澄みきった青い色に見えた。あの彼女たちを包みこむ、神秘的なまでに青い空気は、強く印象に残っている

ガリーナにリーザ、アナスタシアに素晴らしい人々、楽しそうに遊ぶ子どもたち、どこまでも広がる青い空。それらの素晴らしい光景が、わたしにとってのブチャの光景であり、わたしはブチャが大好きだった。

しかし、ロシアの軍事侵攻は、そんなブチャの街を、人々の心を破壊した。そして、多くの罪のない民間人がロシア兵に虐殺された。

2022年3月、空から降り注ぐ激しい砲弾の雨から身を守るため、ブチャの人々は、中央広場の近くに位置する学校の地下シェルターに避難していた。

地下シェルターをユニセフテントのディレクターと、ロシア侵攻時、シェルターに避難していたというおばあさんが案内してくれた。取材当時、6月初頭、ブチャは半袖を着なければシャツが汗ばむほど暑かった。しかし、ロシア軍がブチャの街に侵攻してきた2〜3月の時点では、地下シェルター内は0度ほどの寒さだった。

2月24日、ロシア軍がウクライナへの侵攻を開始すると、約500人の市民がこの地下シェルターで生活を始めた。生後一ヶ月の赤ん坊もこの場所に避難して生活していた。わたしが取材したときも、地下シェルターにはたくさんの段ボールやベビーカー、上着が残されていた。またいつロシア軍が攻めてきてもすぐに避難できるように、置いてあるのだ。

地下シェルター内はどの場所でも便所の臭いが充満していた。埃っぽく、息をするたびに埃が口に入ってきて不快な気分になる。そのような場所で、電気もガスもない暗闇のなか、ブチャの人々は生活をしていた。情報を遮断され訳がわからないまま、人々はいつロシア軍に殺されるかわからない、そんな恐怖に怯えていた。

あの夏、ユニセフテントで遊んでいた11歳の少年スタニスラフも、ロシア軍ブチャ侵攻時、その地下シェルターに避難していた。

「ロシア軍の戦車は、ブチャの人々が避難していた学校の近くで、ウクライナ兵の反撃をわざと待っていたんだ。ウクライナ軍の反撃で学校が壊れて、ウクライナ人が死ねば、ウクライナのせいになるから。お母さんがウクライナ軍に、学校に人が避難しているから攻撃しないでと電話をしたんだ。だから、ウクライナ軍はこの学校を攻撃してこなかったんだ」

まさにこれは、シリアやパレスチナでも行われているとされる、民間人を盾にして相手を牽制する、人間の盾作戦だ。少年をはじめ、学校の地下シェルターに避難した500人のもブチャの民間人は、ロシア軍に人間の盾にされたのだ。

「ロシア軍とウクライナ軍が近くで戦闘をしていたから、巻きこまれるんじゃないかって、毎日怖かったんだ。ロシア軍は僕たちを殺しにきた。何のために殺そうとしたかはわからないけど。ロシアは、街や建物なんて要らないんだ。だから、激しい攻撃で街を破壊したんだ。ロシアが欲しいのは土地だけなんだ」

破壊されたブチャの街なみを見たからこそ、少年が、ロシアが欲しいのは土地だけなのだと考えてしまう気持ちが、痛いほど理解できた。

ロシア軍占領時、このエリアにはガスも電気もなかった。そのため、避難した住人たちは地下シェルターのある学校の中庭で、毎日焚き火をして調理をしていた。しかしある日、この中庭にロシアの装甲車がやって来た。そしてロシア兵は、避難していた男性をひとり連れて行った。その後、男性が学校に帰ってくることはなかった。連れて行かれた男性と同じ地下シェルターで避難生活をしていたおばあさんは、悲しそうな顔で、そう語っていた。

そして、ロシア軍がキーウ地方から撤退し、ブチャの聖アンドレ教会の集団墓地から150〜300の死体が発見された。そこで、連れて行かれた男性の遺体も発見された。彼は死んだのだ。ブチャでは、彼のような罪なき市民がたくさん命を落とした。

便所の臭いがする地下シェルターから外に出ると、どこまでも晴れわたる青空の下、ブチャの子どもたちは、芝生に水をやるスプリンクラーのまわりで、水浴びをしながら走りまわり、無邪気に笑っていた。そんな光景を目の前にして、わたしは、喉元に魚の骨が突っかかるような気分になった。遊びまわる子どもたちが、ベンチで語りあうお年寄りたちが住むこの街が、突如ロシアに侵略を受け、残虐な処刑場と化した事実がどうしても腑に落ちなかった。なぜ、ブチャの人たちはあんな目に遭わなければいけなかったのだ? なぜ? その疑問は、魚の骨のように、いや、もっと鋭い刃と化し、わたしの体に突き刺さり、内臓の深いところまで食い込んでいった。ブチャ虐殺はきっと教科書に載るだろう。そんな虐殺が起きた街ブチャ。なぜ悲劇が起きたのか? なぜ罪なき市民が殺害されなければいけなかったのか? なぜ人は……。

「将来の夢はブチャに家を持つこと。大きなトランポリンを置いて、友達をいっぱい呼ぶんだ」。学校の地下シェルターに避難して

いた少年、スタニスラフは、将来の夢をそう語っていた。

彼がブチャに家を持ちたいのもわかる気がする。この街は、ロシア軍さえ攻めてこなければ、緑も多く、空気もりんと澄んでいて、のどかで住みやすい街だ。それになにより、子どもたちの笑い声がそこら中に満ち溢れている。

あの夏、わたしはいつもブチャの人々の美しく生きる姿を眺めていた。くぎづけになっていたのだ。気づいたらわたしは、中央広場の頭上の青空を見上げていた。ブチャの子どもたちの、ケラケラ、ケラケラという笑い声は、美しくどこまでも広がる青空へと、風に乗って、鳴り響いていった。

第1章② あの夏のブチャ〜嘆きの庭へ続く

(ナゴルノ・カラバフ難民取材のサンプルエピソードとして、アルメニアの少女〜ロザンを現在公開中です。少しでも興味があれば、読んでいただけたら幸いです)