チルドレン〜世界中の子どもたちへ(ウクライナの家族)

世界の果てのあなたへ

ウクライナの少年 ハンガリー ブダペスト 4月

2000年ほど前、神の子イエス・キリストは、人間たちの罪を背負い、十字架に貼りつけられ処刑された。

しかし、処刑されたはずのイエスは、神の奇跡により、ふたたびこの世に降臨した。そして、西暦が始まった。

日本の人にはあまり馴染みがないかもしれないが、イエス・キリストが復活したのが、イースターだ。あの春の爽やかな風を君たちと一緒に感じたのは、ウクライナ正教のイースターの日だった。日本では、4月に吹き荒れる春の風は暖かく、爽やかなものだ。しかし、4月の東欧、ハンガリーの風は、ジャケットを着なければ体の芯まで凍てつくように冷たい風だった。でも、なぜかあのとき、あの子どもたちと感じた風は、冷たいはずなのに、なぜだか日本の暖かな春の風のように、爽やかだった。

あの日わたしは、ハンガリーに逃れたウクライナ難民の人たちとともに、ウクライナの隣国、ハンガリーの首都ブダペスト、美しいドナウ川の真ん中にある、マルガリータ島でピクニックをしていた。

「ジャイポ!!ジャイポ!!」

6歳の少年デニスは、わたしに肩車をしてほしいとき、いつも、ジャイポージャイポーと声をかけてきた。

デニスはロシアのウクライナ侵攻により、首都キーウから隣国ハンガリーへと逃れた、ウクライナ難民の少年だった。

わたしはデニスを肩に担ぎ、「ジャイポージャイポー」と、声をあげ、手でデニスの腕を上下に持ち上げたり下げたりした。

「ジャイポージャイポー!!」

デニスも喜んで「ジャイポージャイポー」と声をあげた。

デニスは暴れん坊のわんぱく少年だった。

デニスはいつも、ウクライナ難民が集まるカフェでものを投げたり、人をどついたり、飛び跳ねたりと、むちゃくちゃに暴れまわっていた。わんぱくすぎるため、まわりのウクライナ難民の大人たちに、少しだけ疎まれていた。

そんな悪童デニスを肩車してみると、思った以上に軽い。デニスは、わたしの肩の上で、ほかの子どもと同じように、いや、それ以上に嬉しそうに「ジャイポージャイポー」と叫んで、喜んでいた。

デニスの機嫌の良さに油断していると、わたしの頭に、ボコッ、という衝撃が走った。デニスが拳で上から殴ってきたのだ。加減を知らないわんぱく小僧の拳は、6歳とはいえなかなか痛い。

「やめろ、やめるんだ。デニス」

通じているかわからないが、英語でそう注意してみる。しかしデニスは、わたしの注意など気にする様子もなく、キャハハと笑いながら、何度も、何度もわたしの頭を上から殴りつける。

ったくこのクソガキが。多少イラっとするが、わたしは、内心、そんなデニスが可愛くて仕方がなかった。

「いい加減にするんだデニス。突き落とすぞ」

わたしがデニスの足を肩から降ろそうとすると、デニスは、僕はとても悲しいです、というような声を出して、懇願してきた。

「ノーノー。プリーズ」

デニスはいまにも泣き出しそうな顔をしながら、英語でそう言ってきた。それが、デニスが喋る唯一の英語だった。

「じゃあ、もう殴るんじゃないぞ」

ため息まじりにそう言った瞬間、ボコッと、ふたたび頭に衝撃が走る。

「キャハハハ」。わたしの肩の上で、デニスは楽しそうにケタケタと笑っていた。ふたたびび頭を殴ってきたのだ。このガキ。

「おいデニス。いい加減にしろ!!」わたしの口調は怒ってはいたが、デニスのあまりの悪ガキぶりに、内心、なぜか笑っていた。

そんなデニスとの日々が、わたしは、とても楽しかったのだ。

デニスは、ハンガリーでのウクライナ難民取材中に仲良くなった少年だ。ウクライナの弟のようだとわたしは思っている。

隣では同じく、キーウから避難してきた少女アデル(17)が、弟のデービットをおんぶして微笑んでいる。アデルは好奇心旺盛で、フレンドリーな少女だった。彼女のことも、わたしはウクライナの妹のようだと思っていた。

父親が死んでから、わたしに家族はいなかった。だからこそ、一人でどこまでも歩いてこられたのだ。だけれど、わたしは、歩き続けた道の先で、あの子どもたちと出会った。

あのとき、たしかにふたりは、わたしにとって、かけがえのない家族だった。ただの取材対象ではなかった。よく遊んでいただけではない。わたしたちはみな、お互いに帰る場所もなく、どこに進んでいいのかも不透明だった。だからこそわたしたちは、身をよせあって、笑いあったのだ。不安という闇を振り払うように。それだけではない、わたしも彼らも、家族というものが欠落していたのだ。だから、心の隙間を埋めあうように、わたしたちは笑いあっていた。

わたしはデニスを肩車して、ジャイポージャイポーとふたりで笑いあった。その隣で、アデルも弟のデービットをおんぶして笑っていた。 

あのとき、わたしの心はいままでにない不思議な感情に満ちていた。穏やかで、とても落ち着く。マルガリータ島には肌寒い風が吹いているのに、なぜだか心のなかは、爽やかで、ポカポカと温かい。この感情はなんだろう、デニスやアデルといると、とてもやさしい気持ちになれる。そしてなにより、安心できるのだ。わたしはひとりぼっちのはずだが、きみたちといるときだけは、この冷たい世界で、ひとりではないのだと、そう、安心することができた。この感情はまやかしだろうか。いや、現実だ。ただ、この爽やかな風のように掴むことができないだけだ。

デニスやアデルとハンガリーで笑いあっていたあの日、爽やかな風が吹いていた。

わたしはこの風を知っていた。

この風は、キルギスのソンクル湖で、ラマザンやイヴィーナと遊んでいたときに吹いていた風と、あの風と同じ風だった。そうだ、この世界はつながっているのだ。あの天国の湖に。多分、この爽やかな風は、キルギスのソンクル湖から吹いてきた風だと、なぜだかわたしはそう思った。

ロシアの爆撃により、ウクライナ、首都キーウにあるデニスの家の窓ガラスは粉々に吹き飛ばされた。アデルの家の近くにはヘリコプターが墜落した。墜落したヘリコプターが黒煙を上げる様子を見て、アデルは、自分の幸せな生活が終わりを告げたのだと理解した。恐ろしい戦争が始まったのだと。目の前で笑うアデルとデニスの姿は、わたしにとって、平和でやさしい世界。この世界の、希望そのものだった。

爽やかな風が吹きぬけるなか、デニスが無邪気に笑う姿を見ていると、デニスの家の窓ガラスと、幸せな生活を奪った戦争、この世界の子どもたちの生活や命、笑顔を奪う戦争を、わたしは、どうしても許せないと思った。

この風は指し示す、わたしの、進むべき道を。

なあ、デニス。お前、いつも肩車をせがんできて、帰ろうとすると、「ノーノープリーズ」と言って、わたしの靴を隠してきたよな。

いつもわたしがトイレに行こうとしたり、取材のために難民たちが集まるカフェから去ろうとすると、行かないで、と邪魔してきたな。

いつも殴りかかってきて、そのたびにわたしがデニスの妨害に応戦して、よく戦いごっこをしたよな。次の取材の時間ギリギリになるまで、ときには少し遅刻することがあっても、わたしは、デニスとバトルを繰り広げていた。最後にはらちが開かなくなり、デニスのお母さんやウクライナ難民の人を呼んでもらい、デニスの注意を引いてもらい、その隙に、デニスに隠された靴を探し出し、わたしは一目散に取材へと赴いた。お前は本当に手に負えない、クソガキだった。それでも、いや、だからこそわたしは、お前と過ごしたが時間がとても楽しかった。

なあ、デニス。多分、お前はお父さんがいないから、お父さんかお兄さんの代わりがほしかったんだよな。わたしは、お前のお父さんになることもできなければ、お兄さんの代わりになることもできない。それに、先行きが見えない状況からお前を救ってあげることもできない。でも、お前と過ごした時間、わたしは本当に幸せだった。

だから、目先の利益よりも、子どもたちのためになることをしたい。将来、子どもたちのためになる記事を書きたい。デニスのことを思い出すたびに、そう思った。

いつも、帰らないで、もっと遊んでと言って、足や手にしがみついてくる子どもたちともっと遊んであげたかった。

でも、子どもたちの手を振り解き、前へ進まなければいけない。

子どもたちが笑って暮らせる、争いのない、平和な世界のために、少しでも貢献できるように。

わたしは歩き続けなければいけない。あの日つかんだ、あの手の温もりを守るためにも。

Діти 子どもたちのために。

別れ ハンガリー ブダペスト 4月

ハンガリー、ブダペスト在住のウクライナ人による、ロシア軍のウクライナ侵攻に対するロシアへの抗議デモの撮影を終えた。デモの撮影を終えるとわたしは、ブダペストで開催されている、ウクライナ、ハンガリーフェスティバルへと向かった。ウクライナ人とハンガリー人が合同で開催し、文化交流するためのお祭りだ。

このお祭りへ向かうのは、ウクライナの妹、アデルとの約束を果たすためだ。

「ション!!マフカのコスプレをするから撮影をして。約束よ。絶対に撮影してね」

アデルはハンガリーでの取材中、ずっとそう言っていた。その約束を果たすときだ。

会場に着くと、ウクライナ人とハンガリー人が腕を振るった料理を振る舞いあっていた。そして、国籍や人種に関係なく、子どもたちは大きなバルーンの滑り台で飛び跳ねて、キャッキャッ、キャッキャッと遊んでいた。

会場の奥のベンチにアデルが座っていた。緑の髪のウイッグを着け、顔には白いペイントで、ウクライナの伝統模様をペイントしている。緑の髪に、大きな紫の美しい花をつけている。緑のワンピースの上には、白いひらひらのレースを羽織っていた。その姿はまるで妖精のようだった。マフカは、ウクライナの伝統的な童話のキャラクターで、森に住み、神秘的な力を持つ一族だと、アデルはいつも嬉しそうに語っていた。

約束通り、祭り会場のはずれにある小川の前で、妖精マフカの格好をしたアデルの写真を撮影した。オレンジの夕陽が降り注ぐなか、アデルは、小川の前の緑の芝に腰掛けていた。爽やかな風がふき抜けるたびに、妖精の緑の髪はサラサラとたなびいた。妖精アデルはとても美しく、神秘的だった。まるで、ファインダー越しに見る光景は現実世界ではなく、メルヘン童話の世界のようだった。そんなアデルの写真を、一枚一枚「ありがとう」と、感謝を込めて撮影した。アデルには感謝しかない。

数日前、わたしは、最終選考まで残ったNOTE創作大賞で落選した。もし賞を取ることができれば、書籍化できるはずだった。倍率100倍の壁を突破し、少し調子に乗っていたが、最終選考まで残るも、結果は賞にかすりもせず落ちた。アルメニアのナゴルノ・カラバフ難民取材を題材にした、ナゴルノ・カラバフ難民100人取材を応募した。自分一人の力ではなく、難民の人たちや、いろいろな人の協力があり完成したものだった。だから、日本に伝えるという約束が果たせず、悔しかった。題材はだれよりも良かったはずなのに、自分の文章能力のせいで賞にかすりもしなかったのだ。不甲斐なく、本当にアルメニアの人たちに申し訳なく、凹んでいた。

日本で住み込みのバイトの合間にずっと書いていたものだ。NOTE創作大賞に落ちた日、失意のわたしに、アデルは、触るとストレス解消になる、ゴムでプニプニしたアンチストレスの可愛らしい人形をくれた。

「これは、あなたがいままでしてきたことに対する賞よ。もし、ストレスが溜まったら、この人形を握って。私は知っているわ。あなたが日本でとても大切なもののために闘っていること。大事な事ことは諦めないこと」。アデルは、グーグル翻訳で訳したメッセージでそう伝えてくれた。彼女のこの言葉は、その後、わたしが凹んだときの道標になった(この原稿を書いている、今もそうだ)。

約束を果たすまで満足はしない。ナゴルノ・カラバフの人たちに対しての約束があり、そう思っていた。けど、わたしの心は彼女の言葉に救われていた。こんな安っぽいことを言いたくはないが、アデルのくれた人形は、大賞よりも、なによりも大切な賞だった。アデルのいう通り、諦めるわけにはいかない。あのとき、心が折れなかったのは、ウクライナの妹のくれた賞のおかげだった。

だから、感謝をこめてわたしは、降り注ぐ夕陽の光に照らされる、心やさしき妖精の写真を撮った。

撮影を終え、祭りの会場に戻ると、そこには見慣れた赤い服の少年がいた。

その赤い服の少年は、暴れん坊のウクライナの弟、デニスだった。偶然にも、悪童デニスも祭りに遊びにきていたのだ。しかし、デニスはらしくもなく、ちょこんと、大人しくベンチに座り、悲しそうな顔をして一点を見つめていた。

バカな、あり得ない。いつも大人が止めても暴れまわっているのに、どうしたんだ? わたしは、デニスの様子にいまだかつてないほどの衝撃を受けた。

「滑り台で遊びまわっていたら、子どもたちにプレゼントを配るプレゼントタイムを逃して、おもちゃがもらえなかったのよ」。デニスのお母さんはそう言って、苦笑いをしていた。

なんだ、デニスらしい話じゃないか。わたしは思わず、プッと、吹き出してしまった。

わたしはデニスの前に立ち、クイックイッと指二本を上下に上げ、ジェスチャーで“来いよ!!”と言いファイティングポーズをした。そのジェスチャーを見たデニスは、ニコッと笑い、わたしの方に全速力でかけてきて、飛び蹴りをしてきた。

戦いごっこの始まりだ。

いつも、そうやってデニスと遊んでいた。そんな時間が、わたしはたまらなく大好きだった。デニスは、満面の笑みでパンチやキックを繰り出してくる、わたしは、それを避けたり受け止めたりした。

わたしたちは、たしかにあのとき家族だった。わたしは、そう思っている。

デニスは父親がいない家庭で育った。父親の愛情に飢えているから、いつも飛び跳ねたり、おもちゃをぶん投げたり、ものを蹴ったりして暴れまわっていた。父親が首を吊り、家族が崩壊したわたしにとって、デニスは、とても他人と思えなかった。わたしたちはいつも戦い、遊び、笑いあった。欠けているなにかを埋めるように。

デニス、わたしもずっとお前と遊んでいたいよ。お前と遊んでいる時間は、風が吹いていて、とても幸せだった。でも、あと4日でお別れだ。だから、今は全力で笑いあおう。なあ、デニス。

「デニスとあなたは特別な絆で結ばれている。あなたがいなくなったらデニスは寂しがるわ」と、デニスのお母さんはよくそう言っていた。

寂しいのはわたしも一緒だ。お前はわたしの家族で、弟だから。だれが何と言おうがわたしは、そう思っている。わたしたちは祭りが終わるまで、二人で走りまわり、はしゃぎ、笑いあった。

「ジャイポージャイポー」

デニスは、わたしの肩の上で楽しそうにそう言って、笑った。

お祭りからの帰り道、わたしはデニスを肩車し、デニスの手を掴み上下に動かし、デニスとともに「ジャイポージャイポー」と声を出した。隣では妖精の格好をしたアデルが歩いている。あのとき、わたしの胸はとても暖かく、いまだかつてない安心感に包まれていた。この気持ちはなんだろうか? 長い間忘れていた気がする。

「########」

突如デニスがウクライナ語でなにかを言うと、アデルは、恥ずかしそうに笑い出した。

「デニスは何て言ったんだ?」

わたしがアデルに尋ねると「私たちみんな家族みたいだねって、デニスがそう言ったのよ」。アデルは恥ずかしそうに笑いながら、そう答えた。その瞬間、わたしたちのもとを爽やかな一筋の風が通り過ぎた。美しい夕陽に包まれ、アデルとデニスは嬉しそうに笑っている。なのに、わたしの頬を一筋の雨が流れた。ああ、そうだ。わたしはずっと自暴自棄で、生きる意味を見失っていた。父が首を吊ったのを見て、これがわたしの運命なんだと、そう悟ったつもりでいた。だけど、わたしはこの子たちのために、子どもたちのために生きよう。そう思った。わたしは風と、ふたりの家族と、心のなかでそう約束をした。

4日後、ウクライナの弟デニスとの別れの日。午前中はデニスと、ジャイポー、ジャイポーと言いあって肩車をしてあげ、戦いごっこをした。だけど、別れが近づくたび、デニスは今までにないほど静かになっていった。最後の別れ際、「バイバイ、元気でな」。そう手を振ると、デニスは何とも言えない寂しそうな、いままでに見たことのない顔をしていた。あの、デニスの寂しそうな顔を、いまでもはっきりと覚えている。

「最後に一緒に歩きましょう」

ウクライナの妹アデルにそう誘われた。二人で取り止めもない話をしながら、美しいドナウ川沿いを歩いた。ドナウ川はキラキラと日の光が反射して、輝いていた。その上を鳥の群れがとび、川の向こうには、童話のようなブダペストの美しい、お城のような建物、宮殿、時計塔、教会が見える。まるで、映画のような光景だった。そんな、美しくキラキラ輝くドナウ川の前には、鉄でできた靴のモニュメントがある。死者の靴だ。

この死者の靴は、1944年〜1945年、ナチスによる死者の行進により、ドナウ川に撃ち落とされ虐殺された、2000人以上にも及ぶユダヤ人を弔うためのものだ。

死者の行進、ナチスによる反ユダヤ主義により、ブダペストのユダヤ人たちは、暴行、拷問を受け、虐殺された。8000人にも及ぶユダヤ人は、ハンガリーを追放され、収容所が待ち受けるオーストリア国境まで、徒歩で、死の行進をさせられた。その内2000人は美しいドナウ川堤防で射殺された。

“殺される前に自分で靴を脱ぐんだ”射殺される前に、犠牲になったユダヤ人たちは靴を脱ぎ、自らの手で、射殺される場所から靴をどかすように命令された。なぜなら、当時靴は高価だったからだ。

その忌まわしい悲劇、罪を忘れぬよう、2005年、『死者の靴』と題したこのモニュメントが作られた。

しかし、人類は過ちを繰り返す。ウクライナ、ブチャでは410人以上の民間人が虐殺され、放置され、腐り切った死体の映像は世界を震撼させた。

アデルはユダヤ人の末裔だ。アデルの祖父母は改宗した、ユダヤ人だった。

「この靴はだれの靴? 虐殺されたのはだれ?」

その靴は、人類に普遍の問いを投げかける。

もし、アデルの祖父母が虐殺されていたら、わたしは、ウクライナの妹に出会うことはなかった。この靴はだれの靴だろうか? もしかしたら、コスプレが大好きな、やさしい少女の靴だったのかもしれない。もしかしたら、暴れん坊の、わんぱく少年の靴だったのかもしれない。

ありがとう。この恩は一生忘れない。

きみたちの素晴らしい笑顔を、わたしは絶対忘れない。わたしはドナウ川を歩きながら、そう思っていた。だから、それを奪う人間の悪意や罪を、わたしは、絶対に許せないと思った。ハンガリーで、わたしのもとを爽やかな風が吹きぬける。わたしは、きみたちと別れた後も歩き続ける、風が、わたしの進むべき道を指し示す。

元気で、幸せに暮らせよ。デニス、アデル、兄弟たちよ。アデルは、美しくキラキラ輝くドナウ川の前で、寂しそうに微笑んでいた。

アデルと別れた後、わたしは宿に戻り、荷物をまとめ、チェックアウトし、次の目的地に向かいバスに乗りこんだ。

バスのなかで、どこか寂しげなブダペストの夜景を眺めながら、気づいたらわたしは涙を流していた。友達と遊びにいく若者たちや、職場から帰宅するためにバスに乗る人など、たくさんの人がバスに乗車していた。なんで涙が出てくるんだ。まわりにたくさん人がいるから、恥ずかしいだろう。そう思えば思うほど、わたしの目から涙がとめどなく溢れ、わたしの体は震えていた。いままで温かいものに包まれていたのに、心のなかに、なにか隙間ができたような気持ちで落ち着かない。心にできた隙間に、冷たい風が吹きこみそうだ。とても大事なものを失ったような、そんな虚しさがわたしの心を包んだ。

もう戻れないのか。

わたしは、微笑むアデルと、無邪気に暴れまわるデニス、別れ際の、ふたりの寂しそうな顔を、何度も、何度も思い出した。ずっと、ブダペストにいたかったな。ああ、これが寂しいという気持ちなんだ。本当にふたりはわたしにとって、なによりもかけがえのない、大切な家族だったのだ。それが、わたしが人生で初めて、人とお別れして流した涙だった。アデル、デニス、元気でな。きっと、いつかまた会えるから。

「ジャイポー」と、デニスが頭のなかで叫ぶ声が聞こえた。

「ジャイポーってどういう意味なの?」と、いつだか、わたしはアデルに尋ねたことがある。「いけーとか、レッツゴーって意味だと思うわ」。英語が苦手なアデルが、不安そうな顔で、そう、答えてくれた日を思い出す。

そうだよなデニス。前へ進まないとな。涙を流すわたしを乗せて、バスはブダペストの街から、遠ざかっていった。