戦場の隣の村 アルメニア クハァナツァク 2021年11月
あの冬のあの日、窓から射しこむ光に照らされ、彼女の流した涙は光り輝いていた。
あの涙には、なにかを変える力があった。
2021年11月16日。その日、アルメニアのクハァナツァクに、アゼルバイジャン軍から70〜80発の銃撃が行われた。
アルメニアとアゼルバイジャンの国境に囲まれた、戦場の隣の村クハァナツァク。あれは、わたしがはじめて最前線のすぐ近くまで行った取材だった。クハァナツァクの人々の声と顔を、いまでもはっきりと覚えている。彼らの声こそ、伝えなければならない。
トルコでの数々の出会いは、わたしがジャーナリストになるきっかけとなった。しかし不運にも、わたしはコロナ渦で中東に取材に行くことはできなかった。そんななか2020年、戦争が始まった。アルメニアとアゼルバイジャンの二カ国間で44日間戦争が勃発したのだ。アゼルバイジャン内のアルメニア人が多く住む地域、ナゴルノ・カラバフ州でのアルメニア人の独立運動により始まった、ナゴルノ・カラバフ紛争。その、凍結されていた紛争が再開したのだ。
わたしは44日間戦争が始まったというニュースを見たとき、トルコで出会い、ともに朝食を食べ、談笑をした、あの美しいアルメニア人女性のことを思い出した。彼女とチャイを飲みながら過ごした時間は、わたしにとって、かけがえのない大切な思い出だった。 彼女と同じアルメニア人が住むアルメニアが、アゼルバイジャンと紛争を始めたというニュースに、わたしは雷に打たれたような衝撃を受けた。この21世紀に、当たり前のように戦争が起き、彼女のような人が戦火に巻き込まれているのかもしれない。そう考えると、わたしの胸は、チリチリとなにかに焼かれたような気分になった。なにかしなければ、そう思った。それは、彼女のためなのか、そんな世界が許せないと思ったからなのか、どちらかはわからない。あるいはその両方の思いからなのか、とにかく、わたしはなにかをしたかった。しかし、コロナ禍で取材に行くことができなかった。わたしは、なにもできない無力感にうちひしがれていた。
そして一年後、2021年、時は満ちた。コロナの規制が緩みはじめたのを機に、わたしはアルメニアに取材に赴いた。それは、わたしにとって、ジャーナリストとしてのはじめての取材だった。
2021年のアゼルバイジャン軍の攻撃により、故郷を追われ、アルメニアに逃れた人々。ナゴルノ・カラバフにある、アルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフの未承認国家)から避難したアルメニア人(国籍はアルメニア人として分類されるが、彼らは未承認国家である、アルツァフ共和国が祖国であり、自身がアルツァフ共和国の国民だと自認している。故に故郷には帰れないが、アルメニア人として難民としても扱われないという不遇な境遇にある人々)。
わたしは彼らを“ナゴルノ・カラバフ難民”と呼んでいる。
彼らは、故郷をアゼルバイジャン軍に占領され、帰れなくなった。そんなナゴルノ・カラバフ難民を取材しに行ったのだ。
そのナゴルノ・カラバフ難民取材の最中、わたしは、アルメニアとアゼルバイジャンの国境、最前線の隣にある最果ての村、クハァナツァクへと赴いた。
アルメニアとアゼルバイジャンという二カ国の国境であり、ナゴルノ・カラバフ戦争の最前線に最も近い村クハァナツァク。その村に続く道には、広大でどこまでも広がる、果てしない丘がある。
最前線という言葉から思い浮かぶのは、荒野や荒れ果てた廃墟だが、その最前線への道は、そんなイメージとは真逆だった。まるで、壮大なファンタジー映画のワンシーンのような、天空の城へ続いているような、そんな光景だった。しかし、この道で立ち止まり写真を撮ることはできない。運転手のアルメニア人は、いままでクハァナツァクへ何人ものジャーナリストを連れて行った経験を持つ。ジャーナリストたちはみな、アルメニアとアゼルバイジャンの国境沿いに近いこの場所で写真を撮ろうとした。しかし、アゼルバイジャンの兵隊が「この場所で写真を撮るな」と注意しにやってきて、トラブルになることもあるようだと彼は語っていた。さらにそこに「ありのままを撮影するんだ」と言うアルメニアの兵隊もやってきて、アルメニア兵とアゼルバイジャン兵の小競り合いになることもあると語っていた。
息をのむほど広大な光景に思わず忘れそうになるが、この場所はアルメニアとアゼルバイジャンが30年にもわたり、血で血を洗う戦争を繰り広げてきた緊張感の高まる場所なのだ。
村へ向かう道から丘の上を見上げると、ブルドーザーやトラックがとまり、その横に倉庫のような建物があるのが見えた。建物にはアルメニアやアゼルバイジャンの旗が見える。「あそこが最前線だ」。運転手がそう教えてくれた。
“最前線”……その言葉にわたしは、少し緊張し、唾を飲み込んだ。戦争の最前線、敵対する兵士たちが銃撃戦や白兵戦を行う場所。わたしはそんな光景を、映画や本でしか知らなかった。まさか自分の人生で最前線という場所の近くに来ることになるなど、想像もしていなかった。
わたしの頭の片隅に、チャイを飲む、鼻が高い美しいアルメニア人の女性が微笑む光景が浮かんだ。
遥か、遠い日の記憶に感じる。
最前線が見える道を車で走りぬけると、丘の谷間に村が現れる。最前線の隣、戦場の隣の村クハァナツァクだ。この最果ての村で、人々は最前線に近い故の苦難に苛まれており、村人たちは、二カ国間の緊張関係、大国の思惑に翻弄され続けていた。
クハァナツァクでは広大な丘を村から見ることができる。景色が良く、数日ここでゆっくり過ごすのもいいのではないかとすら思ってしまう。そう思ったのも束の間、村のなかに車がとまると、すぐそばに流れていた川の水は干上がり、寂れた細いパイプが2本川沿いに設置されているのに気がついた。川の近くに建てられた看板は錆びついている。壮大な景色に囲まれた村は、寂れていた。とても、寂しい雰囲気の村だった。そして、目を凝らし、遠くをよく見ると、いくつものアルメニア、アゼルバイジャン両国の国旗が四方八方に見える。そう、この村は両国の最前線に囲まれているのだ。
村はすべてアゼルバイジャン軍の攻撃の射程範囲内で、最前線に最も近い民家は、最前線からわずか80メートルの場所にある。戦争の最前線から、たった80メートルの家で、アルメニア人が生活しているのである。その事実はわたしにとって、にわかに信じられない光景であり、この世界の現実だった。
そんなクハァナツァクにも、普通の子どもたちや家族が生活している。川沿いの石造りの家の合間を進むと、二階建ての建物の二階へと続く、質素で錆びついた階段が現れる。階段を登ると、どこか儚げだが、やさしい笑顔の女性、エマ(仮名39)がわたしたちを出迎えてくれた。
エマは2020年の44日間戦争で、アゼルバイジャン軍に故郷を奪われ、追われたナゴルノ・カラバフ難民だった。現在はこのクハァナツァクで暮らしている。
2020年、10月27日、彼女たちの暮らしていた、アルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフ内の未承認国家)、ジゼルナバンク村は、アゼルバイジャン軍に武力で制圧された。その際、村の発電所はアゼルバイジャン軍に破壊された。彼女は、ジゼルナバンク村から8キロほどのこのクハァナツァクに、発電所が破壊され真っ暗闇のなか、命からがら歩いて避難してきた。そして、村を奪われ、命からがら避難してきた日から、このクハァナツァクで暮らしている。
「この村では子どもを朝学校に登校させるだけでも、アゼルバイジャンの基地が近いから危険で、なにが起こるかわからなく、とても不安なの」。エマはそう語っていた。
エマの家には無邪気にほほえむ小学生くらいの男の子と、恥ずかしそうに笑う小学生くらいの女の子、そして、疲れ切った顔をした高校生くらいの女の子がいた。3人はエマの子どもたちだ。子どもたちはみな口をそろえて「アゼルバイジャンがいつ攻撃してくるかわからず怖いんだ」と語っていた。
「そんなに頻繁に攻撃してくるのですか?」と質問すると、一週間に2〜3回はアゼルバイジャン軍が威嚇射撃をしてくると教えてくれた。それは、わたしの想像以上の数だった。
取材を手伝ってくれていた村の若者は「アゼルバイジャン軍は村人を脅して怖がらせ、村から立ち去らせたいんだ。そうすればあいつらは、簡単にこの村を手に入れることができる。だから威嚇射撃をしてくるんだ」と答えてくれた。それが最前線に囲まれた村の現実だった。
この村すべてがアゼルバイジャン軍の攻撃の射程範囲に入る。そんな村で、週に2〜3回、敵国の軍が射撃を行ってくるのだ。なんと恐ろしいことだろうか。当時、銃や射撃、敵国の軍というものが身近ではないわたしにとって、クハァナツァクの現状は、にわかに信じられない状況であり、恐怖でしかなかった。とくに子どもたちにとっては、なんと恐ろしいことだろうか。この子どもたちは、44日間戦争により故郷を追われ、辿り着いたこの村ですら安心して学校に通うことすらできない。
「4日前アゼルバイジャン軍は、10分〜15分おきに銃を撃ってきた。70〜80発は1日で攻撃してきたと思うわ。セヴ湖のようにいつ、戦闘が始まるか怖くて。気が気じゃなかった」。そうエマは顔を歪め、恐怖に満ちた表情で語った。
この取材を行った4日前の11月16日、この村の北西にある銀に輝く岩山。その岩山の向こうにあるセヴ湖で、2020年の44日間戦争以来、最大の戦闘がアルメニア軍とアゼルバイジャン軍の間で行われた。
この衝突時、クハァナツァク村近辺でも、アゼルバイジャン軍がアルメニア軍を挑発するために70〜80回もの攻撃を行っていたということだ。
「たくさんのアルメニアの兵士たちが村を守るためにやってきた。アゼルバイジャン軍から70〜80回もの攻撃を受けたにもかかわらず、アルメニア軍は、民間人が住むこの村の近くで戦闘が始まるのを避けたかったから、銃を撃ち返さなかった。いつもアゼルバイジャンは戦争を望んでいるが、我々が望むのは平和だけだ」と、この日あった20人近いクハァナツァクの村人のうち、多くの人々がそのように語っていた。
来年、大学受験を控えるエマの長女の夢は大学の先生だった。しかし、この村では大学受験ですら、ほかの地域に比べて圧倒的に過酷だった。受験勉強をするための塾や家庭教師がこの村にいないからだ。最寄りの街ゴリスまでも約30キロの距離があり、塾に通うにしても高額なタクシー代が必要になる。そもそも、前述した通り、この村とゴリスを結ぶ道は、アルメニアとアゼルバイジャンの最前線に近く、塾に通うのも安全ではない。
教師不足もこの村の深刻な問題だった。危険な最前線が近いこの村に、ほかの地域からわざわざ授業を行うために通ってくれる教師などいなかった。いまはこの村の学校に、物理を教えることができる先生はいない。平等に教育を受ける権利があるはずの子どもたちでさえ、戦争の影響で受けられるはずの教育を受けることができていなかった。
それだけではない、アゼルバイジャン軍による家畜の強奪も問題だった。
夜の闇に紛れ、アゼルバイジャン軍は村人たちの大事な生活の糧である牛、鶏や馬などの家畜を盗んでいく。そう多くの村人が嘆いていた。
家畜強奪の話を聞いて、正直、わたしは最初ポカンとしていた。どういうことだろうか?戦場の、最前線付近の村にはじめて訪れたわたしには、いまいち状況がつかめなかった。アゼルバイジャンの軍隊が脅しの為に威嚇射撃をしたり、最前線でアルメニア軍と時折交戦したりするのは、1000歩譲って理解できる。
しかし、なぜアゼルバイジャンという国の正式な軍隊が、村で暮らす民間人の家畜を盗んでいくのか。そこが理解できなかったのだ。そんなことがあり得るのか?
戦争から遠く離れた国、平和の国日本から来たわたしには、戦時中やそれに近い状況下で、軍隊や敵国の軍が、民間人にとって、どのような存在であり、なにをするのか、まるでわかっていなかったのだ。
わたしにとって、戦時中の敵国の軍隊は歴史の教科書のなかの話か、ガンダムなどのロボットアニメのかっこいい戦い、漫画のかっこいいキャラクターたちが悲劇のなかでもなお活躍する舞台。または、瓦礫の山と、際限なく増える死者の数が流れる、ピンと来ないニュースのワンシーンでしかなかった。シャアもアスランも、敵国の民間人の家畜を強奪したりしない。アゼルバイジャン軍が家畜を強奪??
「なぜアゼルバイジャン軍はあなたたちの家畜を奪うのですか?」。わたしは素朴な疑問を村人たちにぶつけた。
「単純な話だ、牛や鶏はアゼルバイジャンの兵隊が食べるために盗んでいくんだ」と村人たちは、さも当然のことだというふうに語った。そんな村人たちの現実の前に、わたしは言葉を詰まらせた。アゼルバイジャンという国の正式な軍隊が、食べるために、敵国とはいえ、隣国のアルメニアの民間人から家畜を盗むなんて、軍隊というかまるで盗賊じゃないか。このような敵対国が接する国境では、隣国の軍隊が家畜を奪っていくのは当たり前のことなのだろうか?わたしはクハァナツァクの現実を前に、ポカンとしていた。民間人が隣国の軍隊に家畜を強奪されているなど、想像もしていなかったのだ。
わたしは、まだ戦争の最中に、軍というものがいかに残酷で利己的な行為を行い、正義の名のもとに自身を正当化するのか、そのことを知らなかったのだ。後に、そのような戦時下の歪みきった醜悪な正義を、ウクライナのブチャで、嫌というほど見聞きすることになるとは、このときのわたしは、知るよしもなかった。
「馬は嫌がらせで盗むんだ。俺たちが入れないアゼルバイジャン領土の丘のうえで、俺たち村人にわざわざ見えるように、盗んだ馬を乗りまわすんだ。お前らの馬は、アゼルバイジャンのものだ。次はクハァナツァクも、アゼルバイジャンのものにするって、嫌がらせのメッセージを送るために」と村人たちは説明してくれた。いくら敵対国家の村人相手だからといって、家畜を盗むなどという行為が許されていいはずがない。犯罪じゃないか。わたしはアゼルバイジャン軍の横暴に憤りを感じた。
「アゼルバイジャンの基地が近いのは問題だ。牛や馬を盗まれるんだ。牛を5頭、馬をたくさんアゼルバイジャン軍に盗まれたんだ。いつ撃ってくるかもわからないし、いつ戦いになるかわからない」とデビット(仮名70)は語ってくれた。
なぜ彼らは、このような危険で不便な場所に残り続けるのだろうか?村人たちの話を聞いて、わたしの頭のなかに、ふとそんな疑問が湧いた。仕事がないと嘆く人も少なくないというのに。ならば、安全な村や都会に移動した方がいいのではないか?そう思った。
しかし、彼らにはいくら危険でも、このクハァナツァクで生活を続けねばならない理由があった。子どもが3人いるエマも、家畜を奪われたデビットも、牛や鶏、馬などの家畜をこの村で育てている。
生活のために家畜を育てるのは、アルメニアで地方に住む人々にとっては当たり前のことだった。家畜を育てるためには、家畜の餌となる牧草がある広い土地がいる。しかし、このような牧草が生えた土地を、縁もゆかりもない土地で探すのは困難を極める。土地を買うために大金も必要だ。そもそも、牛や馬、鶏などの家畜を連れて、遠く離れた村へ移動すること自体がとても大変だ。だからといって、アルメニアの村に住む人たちにとって、生きる糧であり、財産でもある家畜を簡単に手放すことなどできはしない。彼らは生きるために家畜を育てる必要がある。だから、この戦争と隣り合わせのクハァナツァクから離れることはできないのだ。生きるために。
家畜を奪われたデビットには、3人の息子がおり、毎晩、村を守るためにアルメニア軍の基地に出かけていく。「息子になにか危険があると思うと、とても心配で怖いんだ」とデビットは語る。しかし、彼と彼の家族もこの村を離れるわけにはいかない。
「最後に、なにか日本や海外の人たちに伝えたいことはありますか?」。そんな質問を毎回ナゴルノ・カラバフ難民に尋ねていた。クハナツァク村で取材していた当時、すでに80人ほどのナゴルノ・カラバフ難民の人々に取材してきた。
この質問に、ほかの村や街に住むナゴルノ・カラバフ難民の人たちの多くは、平和の大切さや戦争の悲惨さを語ってくれた。しかし、この村の人たちは違った。
「アメリカやヨーロッパなどの大国から、アゼルバイジャンに攻撃を止めるように言ってほしい」
「大国の力でどうにかアゼルバイジャンを止めてほしい」
このように、大国にアゼルバイジャンをとめてほしいと彼らは答えた。その様子は鬼気迫るものがあり、切実だった。
取材中、尿意をもよおし、ある村人の家の外にあるトイレ(ぼっとん便所)に駆けこんだ。小便を済まし、トイレを出ると、トイレの前から、空をパタパタとはためく、青、赤、緑の3色で彩られた、アゼルバイジャンの国旗が見えた。
わたしは目の前を優雅にはためく、彼らの敵国の国旗を見上げ、敵国のあまりの近さに、あらためて驚き、息を飲んだ。あのとき、飲みこんだ空気の冷たさを、いまでもはっきりと覚えている。
2020年、アルメニアとアゼルバイジャンにおける44日間戦争前、クハァナツァクには約300もの家族が暮らしていた。
しかし、2021年、いま現在暮らしているのは、わずか130家族だけだ。約170もの家族が、あの戦争の後この村を離れた。いまもなお、この村の人たちはアゼルバイジャン軍から嫌がらせや、威嚇攻撃を受けている。彼らは、はたしてどうなってしまうのだろうか。彼らが望むのは、ただ平穏な日々だけだというのに。
「遠慮せずに食べてちょうだいね。日本の人が話を聞きに来てくれるって聞いていたから、作っておいたのよ」。エマはお皿に、アルメニア料理、ゼンガロブ・ハットを盛りつけてだしてくれた。
ゼンガロブ・ハットは、ハーブとガーリックをたっぷり包んだパンだ。とてもジューシーで美味しく、わたしの大好物だった。アルメニアの首都エレバンにいるときはよく食べていた。まさか、最果ての村でお目にかかれるとは。でも、エマの家族も大変だというのに、食べていいのか?
「食べていいんですか?申し訳ないですよ」
「いいのよ。せっかく私たちの話を聞きに来てくれたのよ。せめてものお礼よ」
お礼だなんて、わたしは――ただ。
何度か遠慮したが、エマに強く勧められ、断ることができず、ゼンガロブ・ハットを食べることにした。一口かぶりつくと、ハーブのやさしい味と、ガーリックのジューシーな味が口のなかいっぱいに広がる。美味しい。ハーブとガーリックの効果か、一口食べるだけで身体中がポカポカと温かくなる。冬のアルメニアは凍えるほど寒いため、助かる。
エマはさらに食後に、掌の大きさもないサイズの可愛らしいカップに、アルメニアコーヒーを入れてくれた。一口飲むと、アルメニアコーヒー独特の苦さと、程よい甘さが口のなかに広がる。絶妙な味で美味い。アルメニア人はフレンドリーで、おもてなしの文化が根付いている。わたしは、行く先々でもてなされ、アルメニアですでに何杯もアルメニアコーヒーを飲んできた。そのため、アルメニアでのインタビューでの一番の心配は、もちろんコミュニケーションだが、次の心配は、大事な話をしているときに、コーヒーの飲み過ぎで尿意をもよおし、話の腰をおってしまうのではないかということだった。それほどまでにみんなが、アルメニアコーヒーでもてなしてくれた。しかし、エマの出してくれたコーヒーは、お世辞抜きで一番美味しいアルメニアコーヒーだった。
「このアルメニアコーヒーはとても美味しいです。今まで飲んだアルメニアコーヒーで一番美味しい。カフェを開けるレベルですよ」。わたしはあまりの美味しさにテンションが上がり、気づいたら、そんな感想をエマに述べていた。
エマは窓から差し込む日の光に照らされ、やさしい、穏やかな表情で微笑んでいた。あのアルメニアコーヒーは、やさしいエマが入れてくれたから甘くて、温かい味がしたのかもしれない。彼女の笑顔を見ていると、そんな気持ちになる。
「最後に、なにか世界に伝えたいことはありますか?」。いつも最後にする質問を、エマにもぶつけた。
「今のアルメニアの状況はとても悪い。でも、世界は沈黙している。アゼルバイジャンがたくさんのアルメニア兵を殺しているのに。大国に来てほしい。アゼルバイジャンの横暴を止めてほしい。平和のために。アゼルバイジャンに最前線でなにもしないでと言ってほしい。止めてほしい」。最前線に囲まれた村に住む彼女の叫びは、切実だった。
この村で多くの人たちの嘆きを聞いた。
しかし、わたしなどにクハァナツァクの人のためにできることなど、なにもなかった。アゼルバイジャンを止めるためにできることなど、あるはずもない。わたしは、アメリカや西欧の大国はもちろん、日本にすら、メディアにも政府にもコネなどなかった。当時、ナゴルノ・カラバフ難民の話を聞きに来たにも関わらず、聞いた話をどう伝えていいのかわからず、わたしは、インタビーのたびに罪悪感を感じていた。
だれにも、彼女の悲痛な叫びを届けることはできない。わたしは、途方もない無力感に包まれていた。
わたしにできることは、拳を握り締め、ただただ立ち尽くすことだけだった。自分の無力さが、悔しかった。内心、悔しさに打ちひしがれていたわたしに、エマは語りかけてきた。
「ありがとう、ここまで来てくれて、本当に嬉しい。本当にありがとう。あなたがきてくれて、とても嬉しかったわ」
そう語る彼女の瞳から、すっと一粒の雫が溢れた。それは、涙だった。彼女の瞳から溢れた涙は澄んでいて、きらりと光っていた。
――?アリガトウ?何で、何でありがとうなんていうんだよ。その涙を見た瞬間、わたしの心のなかの蓋が開き、さまざまな感情が色とりどりの波のように溢れ出して、とまらなくなった。
わたしにはなにもできないのに。なにも力がないし。日本や西欧にコネなどもない。わたしは、ただこのクソみたいな世界の理不尽が納得いかず、許せなかった。父が自殺したときも、ウルファでシリア難民の人たちの過去を聞いたときも、クルド人の各地での迫害を知ったときも、一緒に朝御飯を食べた、あの美しいアルメニアの女性と同じ、アルメニア人が住む、アルメニアが戦争に巻き込まれたときも、わたしは、そんな世界の理不尽が、たまらなく許せなかった。しかし、いつだってわたしなどにできることなどなにもなかった。だから、せめて納得したかった。そのためにこの最果ての村まできたのだ。
しかし、わざわざこの最果ての村まできたわたしが抱いた感情は、納得とは遠くかけ離れたものだった。怒りと、疑問と、悲しみと、絶望、やるせなさ、それらが入り混じった感情だった。
わたしは、最前線の隣の村の現実を前に、ただただ立ち尽くすしかなかった。しかし、エマの言葉を聞いて、目頭が熱くなり、身体中が震えた。ありがとうって――なんで――そんなこと言うんだよ。わたしにはなにもできないんだよ――。自分の無力さと、エマの思いがけない言葉に、なぜだか涙が出そうになった。まさか、現地の人に感謝などされるとは思ってもいなかったのだ。だけど、平和にのうのうと暮らすわたしなどが泣いていいはずがない、ということだけは、わかっていた。だから、涙を堪えた。わたしは、拳をさらに強く握り締めた。
なんでこんなにやさしい人が故郷を追われて、涙を流さないといけないんだろう。わたしはそんな現実をどうしても許せないと思う反面、とても、虚しいと思った。だから、わたしは――そして、彼女のありがとうという言葉を聞いて、なぜだか、とても嬉しいと思ってしまった。素直に嬉しかったのだ。ありがとうと言われて。
だからこそ、彼女の声なき声、叫びを、あの涙を、あの光景を、たくさんの人に伝えなければならない。そう思った。それが、彼女たちと、ナゴルノ・カラバフの人たちと対話したわたしの責務だ。
だから、わたしはもっとたくさんの人にこれからも会いに行く、声なき声を聞いて、対話をする。そして、一人でも多くの人に伝える。それが、わたしが最果ての村で彼女と交わした誓いだから。
「こちらこそ、貴重な素晴らしいお話をありがとうございました。絶対に、一人でも多くの人に話を聞いてもらえるように全力を尽くします。あなたのような人に会えて、本当に良かった。本当にありがとう!!」
やさしいお母さんの流した涙と、彼女との誓い、その誓いだけは絶対に忘れてはならないのだ。そして、彼女が空っぽわたしに言ってくれたありがとうという言葉、その言葉も絶対に忘れない。忘れちゃいけないんだ。クハァナツァクの現状はわたしが伝える。当時のわたしは、そう思っていた。
しかし、現実は無常だ。その約束が果たされることはなかった。
いまにして思えば、クハナツァクやナゴルノ・カラバフ難民の人々との出会いが、もっとたくさんの世界の悲痛な声を聞かなければならないと思うきっかけとなり、ウクライナ、ブチャを取材するきっかけでもあった。わたしは今でも、エマのやさしい微笑み、澄んだ涙、ゼンガロブ・ハットとアルメニアコーヒーの温かな味を覚えている。それ以上に大事なことなど、この世界のどこにも、ありはしない。
そして2022年、わたしは、ウクライナへ向かった。
虐殺の街ブチャへ。
世界の果てのあなたへ 第一章 あの夏のブチャ〜ガリーナ〜へ続く(サンプルとして、第一章の途中まで現在公開中です。少しでも興味があれば、読んでいただけたら幸いです)