悲しい嘘 ウクライナ ブチャ

ブチャ Bucha

悲しい嘘 ウクライナ ブチャ 2022年 8月 

驚くべきことだが、ウクライナを取材し、日本に帰国してから、わたしが戦争関連で一番日本の人に聞かれることは、ウクライナの実情や、ウクライナの人に対する心配ではない。

日本の人が、ウクライナに行った自称ジャーナリストのわたしに聞くこと、それは、「ロシア兵がドローンで殺される映像をソーシャルメディアで見た、ロシア兵が殺されているのは本当?」とか、「歴史的には、先にロシアの文化を攻撃したのはウクライナ政府だ」とか、「知り合いのロシアに住んだ人はブチャ虐殺を嘘だと言っていた。ヨーロッパのメディアでも取り上げられた事実だが、日本は取り上げない」とか、「メディアはウクライナでばかり取材して、ロシア側から取材しなくてフェアじゃない」とか、ロシアへの配慮だった。驚かれることかもしれないが、本当の話である。しかも、別に親ロシア派とか、陰謀論者とかでもない、普通の20代の女性から、60代の男性、フリーランスから、管理職まで、様々な、まともだと言われる人たちからである。そのような質問を受けるたびに、わたしはため息をつきたい気持を抑えられなかった。怒りを通り越し、絶望である。みんな平和を願う、普通の人たちだった。当然のことだから口にしないのか、ウクライナの人やブチャの人に対する心配は、片手で数えるほどしか聞いていない気がする。なぜ、まともな彼ら、彼女たちはロシアを配慮するのか?あくまでわたしの推測だが、ロシアが心配、と言うよりも、自分が他の人より中立で正しいと皆考えていて、ロシアへの配慮を口にした方が、周りより一歩深く考えて見える、自分が賢く見えるという心理的なものなのではないかとわたしは考えている。でないと、まともな人たちが、ロシアにも配慮が必要という意見を言い、ロシアを配慮する質問を、侵略を受けているウクライナの人を配慮する質問より先に聞いてくる意味がわからないのだ。ブチャやウクライナの人たちと話したわたしには、到底理解できない。このような意見が象徴するように、メディアや世界中の人が、ウクライナに贔屓すぎだと考えられている節があるように感じる。メディアへの不満もあるのだろう。その気持ちはわかる、わたしもメディアなど大嫌いになった。糞食らえだ。だが、まあ、メディアへの不満より、今はウクライナやブチャの話をする方が優先だ。ウクライナを取材した、ジャーナリストとして(メディアではない)。このように、ウクライナばかり優遇され、配慮されている、ロシアの人の気持ちも考えろ、というようなことを言う人も多いのだ。

わたしは、実際は逆だと思う。家族を殺され、街を破壊されたというのに、ロシアに配慮しろなどと言われるのは、あまりにも理不尽ではないだろうか?一番悲劇なのは、目の前で知人をロシア兵に射殺されたというのに、モスクワにいるロシア人の父を配慮し、ロシア兵がブチャの民間人を虐殺し、ウクライナの街を破壊したということを愛する父に伝えることができない、ブチャの“死の通り”に住む、アッラのような人だと思う。

“死の通り”のなかほどにあるガラス工場地区には、9階建てのひときわ目立つ、近辺で一番大きな団地がある。

団地の駐車場には、焼け焦げて、茶色い鉄の塊となった車だった物質が放置されている。アッラ(43)は、占領下の“死の通り”で、知人の男性ブラッドが、ロシア兵に射殺される様子を目撃した女性だ。知人のブラッドは、黒い服を着ていたため、警察と間違われて射殺されたのだろうと彼女は考えていた。焼け焦げた車の残骸の前、彼女は遠い目をし、ロシア兵占領下に目の前で射殺された知人の、最後の様子を語り出した。

2022年、3月、ロシア軍占領下のブチャ、“死の通り”ヤブランスカストリートで、ブラッド(43)は、駐車場を9階建てのアッラが住む団地へと向かい歩いていた。

アッラは団地の2階から、ブラットがアパートへ帰ってくる様子を眺めていた。ブラッドはアッラの元夫の友達で、同じアパートに住んでいたのもあり、よく知っている男だった。そんな光景を眺めていると、バンッと耳をつんざく銃声が鳴り響いた。

「そのとき、銃撃の音がしたの。一階から、銃弾が鉄のドアを叩く音が――ロシア兵がブラッドを撃ったに違いないと思ったわ。でも、一階まで確認に行くのは怖くてできなかったわ。ロシア兵が来た可能性がある。私も殺されるかもしれないと思ったから。夕方まで部屋にいた。すると、風の音が一階のエントランスの方からしてきたの。先ほどの銃撃でエントランスのドアが壊れたのかもしれないし、ドアが開いているのかもしれない。なにが起きているかわからなかった。けど、一階のドアに異常があり、放置しておくと私たちが危険だというのはわかったわ」

アッラは息子と、友達の息子と共にドアを確認しに一階のエントランスへと向かった。一階におりると、ブラッドの死体は、エントランスの開いたドアの隙間に挟まっていた。知人が射殺され、ドアにゴミのように挟まっている。とても残酷な光景だったが、なぜかアッラの頭は冷静だった。自分と息子たちの身を守るために、ドアを閉めなければならない。ブラッドの死体をどかさなければならない。死体を外へ移動させるのは怖かった。けれど、移動させなければ、ドアを閉めなければ身を隠せない。ロシア兵に目をつけられたら、自分たちが殺され、死体になってしまう。アッラたちは、勇気をふりしぼり、ブラッドの死体を外へ移動させた。そのとき、エントランスドアの前のライトが点いていることに気がついた。これは……危険だ。インターネットに、外には無数のスナイパーが潜んでいると書かれていた。ライトがついているとスナイパーの気を引く可能性がある。目立つわけにはいかない。生き残るために。しかし、ライトを消したいが、ライトのスイッチの場所がわからない。そのため、ライト自体を外す他なかった。極限の状態だった。

「来ないで!!来ないで!!」。夜中になると、一階から女性の泣き叫ぶ声が聞こえた。ブラッドには内縁の妻がいた。その未亡人が泣き叫んでいたのだ。その後、一階で未亡人が誰かと話す声が聞こえた。いや、話声は未亡人の声だけだった。今でもはっきりと思い出せる、未亡人の泣き叫ぶ声は、とても悲しく、おどろおどろしく、恐ろしい声だった。彼女が泣き叫ぶたびに、胸が張り裂けるような気持ちになった。アッラは近所の人たちと共に、2階で息を潜めていた。そのなかには7歳の子供もおり、アッラは子供の耳を塞いだ。未亡人の泣き叫ぶ声を、子供に聞かせたくはないからだ。

「ロシア兵が、未亡人の元に来たんですか?」。わたしは思わず、アッラに尋ねた。

「誰も来ていなかったと思うわ。未亡人は一人だったはず。私たちは砲撃を恐れて部屋のなかでなく、二階の廊下にいたから。下のエントランスに誰か来たら聞こえたはずよ。多分、彼女はショックでおかしくなってしまったのだと思う」

「なぜブラッドはロシア兵に射殺されたんですか?」

「ロシア人はプロパガンダを信じていたわ。ウクライナのナショナリストが、ロシア人を殺したと。そんなナショナリストはブチャにも、ウクライナにもどこにもいないのに。本気で危険なナショナリストから、ウクライナ人を解放しに来たと信じていたのよ。だから、黒いジャケットを着ていたブラッドを、危険なウクライナの警察だと勘違いして射殺したのかもしれない。たくさんの人が黒い服を着ているというだけで殺されたわ」。ブチャでたくさんの親族や友人が射殺された人の話を聞いてきたが、黒い服を着ていたから殺されたというケースも多かった。疑わしきは殺す。ただ、それだけだった。

「私のお父さんはね、今もロシアにいるの。お父さんはロシアのプロパガンダを信じているの。今も電話で話すわ。でも、私はお父さんにロシア軍がウクライナの街を、ブチャを破壊して、たくさんの人を殺害していると教えることができないの。なぜだかわかる?お父さんは末期癌で入院しているの。もうすぐ亡くなってしまうかもしれない。そんなお父さんに、ずっと暮らしてきたロシアの人たちが、娘の、孫の住んでいる国の人たちを虐殺しているなんて伝えられるわけないでしょ」。アッラは焼け焦げた車だった鉄の塊の前で、切なそうな表情で語っていた。愛する父に本当のことを言うことができない。それは、彼女のなによりも優しく、なによりも悲しい嘘だった。