残された父からのメッセージ ウクライナ ブチャ

ブチャ Bucha

2月24日

「すぐにブチャを避難するんだ。」

少年の母ダリナに隣町、アントノフ空港の在るホストメルで兵隊をしていた兄から電話がかかってきた。

その電話を受け、ダリナは2歳の子供を連れてウクライナの別の地域にすぐさま避難した。しかし、ダリナの父はブチャに残った。故郷を守るためだ。ダリナのお父さんは正規の兵隊ではなく、領土防衛隊に入隊して、一般人として故郷を守ろうとしたのだ。

「ブチャで虐殺があったのはブチャ市民に銃がたくさん支給され、ロシア軍が激しい抵抗に遭い、戦闘になったからですか?」ウクライナ現地に行ったジャーナリストとして、このような質問を日本で何度かされたことがある。答えは否、ブチャの人たちに話を聞く限り、市民に基本武器はなかった。だから、ブチャは簡単に制圧されたのだ。

アントノフ空港があるホストメルと違い、ブチャには特別な軍事施設はなかった。だからこそ、いとも簡単にロシア軍に占領されてしまい、地獄と化したのだ。

「領土防衛隊の父には銃などの武器や防弾チョッキはもちろんのこと、ヘルメットすらなかったわ。それでも、病院を守るためにロシア軍と戦ったの。」

そんなダリナのお父さんにブチャの市長は市民のためにクッキー工場でパンを焼くように頼んだ。食料の確保もブチャを守るための大切なミッションだ。お父さんは了承した。

「祖母がクッキー工場の近くに住んでいたから、パンを祖母のために焼きたかったんだと思う。だから…父は残ったのだと…。」ダリナ今にも泣き出しそうな表情で、静かにそう語った。

2月末、ブチャのクッキー工場でお父さんはパンを焼き始めた。このエリアはとりわけロシア軍からの攻撃が激しかったとダリナは語っていた。3月4日、激しい爆撃の末クッキー工場を含む周辺エリアはロシア兵に占拠された。そして、この日がお父さんとダリナが電話で話した最後の日となった。

3月5日、クッキー工場に居たお父さんの同僚はお父さんを目撃している。それが、お父さんが目撃された最後だった。

3月20日、お父さんを目撃した同僚はクッキー工場から避難。お父さんは行方不明となる。

3月末、ロシア軍はキーウ地域から撤退した。しかし、お父さんは見つからなかった。

4月10日、150〜300もの遺体が見つかった聖アンドレ教会の集団墓地からお父さんの遺体が見つかった。後頭部には銃弾が撃ち込まれていた。これは、お父さんがロシア兵に処刑された可能性が高いことを意味する。

“愛している”

発見されたお父さんの携帯にはダリナへの最後のメッセージが残されていた。

しかし、ネット回線が悪くダリナの電話に届くことはなかった。

「世界でいちばんの父だった。子供の世話も助けてくれた。何より、私のお父さんだから。」ダリナは感情を抑えるようにゆっくりと一点を見つめてそう語った。

「この街には子供や若い夫婦がたくさん住んでいるの…。なんでこんなことになってしまったのか、理解できない。」