グッドボーイと残されたメッセージ ウクライナ ブチャ

ブチャ Bucha

メッセージ ウクライナ ブチャ 6月 8月

「#######」。

わたしがブチャのユニセフテントを訪れると、そのたびにグッドボーイは、何らかのウクライナ語で話しかけてきた。

グッドボーイは、3歳くらいの角刈りのような短髪の少年だ。ウクライナの小さい子どもは基本的にはじめシャイで、なかなか自分から話しかけてこない。しかし、グッドボーイは違った。

初めて会ったときから彼は、「####」と、ウクライナ語で東洋人のわたしになにかを話しかけてきた。わたしがウクライナ語を話せないことがわかった後も、グッドボーイは、言葉が通じないことなどたいした問題ではない、というふうに、わたしにウクライナ語で、おもちゃのことや自分がどういう風に遊んでいるかを説明してきたはずだ。

というのも、わたしはウクライナ語がわからないから、彼が実際になにを言っているか正確には理解できないが、身振り手振りのせいなのか、わたしが言葉の通じない国でいろいろな人と交流してきたからか、なぜだか理由がわからないが、グッドボーイがなにを言いたいのか、なんとなくわかった。

いや、彼の賢者のような、なにもかも見透かすような、木星のような大きな瞳で見つめられると、そう納得するほかない。彼は、異国の言葉が通じぬ東洋人を目の前にしても、物おじしなかった。度胸があるとかそういう次元の話ではない。まるで、世界中のことはすべてわかっているような風格で、わたしに接してくるのだ。グッドボーイはわずか3歳にして、賢者のような、なにか達観しているような、そんな風格を身につけていた。

グッドボーイは、良く親指を上に上げ、手でグッドマークをしてきた。だから、わたしは彼のことをグッドボーイと呼んでいた。

普通は、3歳の子どもがグッドマークをして駆けよってくれば可愛らしいものだが、グッドボーイは違った。確かに、3歳の小さな彼がグッドマークをしてかけてくるのは可愛らしくもあるが、それよりもなぜか、俳優のブルースウィリスが映画でテロリストを倒し、世界を救い、最後のシーンにグッドマークをするような、そんな光景が頭に浮かんだ。わずか3歳の彼がグッドポーズをする姿には、なぜだかそんな逞しさがあった。

わたしはグッドボーイと接するとき、教会の神父さんや、お坊さんなど、聖職者の方たちと接するときのように丁寧に接した。とはいえ、ブチャの重苦しい取材をしていたあの頃、よくわたしに絡んでくれるグッドボーイは、わたしにとってささやかな癒しだった。彼のことを思い出すと、いまでも、つい微笑んでしまう。

6月上旬、ブチャの白いユニセフテントでグッドボーイが遊んでいる。「TUNAMI!!TUNAMI!!」。グッドボーイがそう叫ぶと、キャーキャー言いながら、もう一人の少女と少年が、人形を持って、ドタバタとあっちへこっちへと走りまわっていた。そんな子どもたちを見て、わたしは困惑して、思わず笑ってしまった。まさか、津波という日本語をブチャで、しかもグッドボーイの口から聞くとは思わなかったのだ。君たちは戦時中だろうに、津波ごっことは、子どもの自由な発想を見ていると、大人たちの面子にこだわる様子が、本当にバカバカしいと思える。津波を発生させて、ほかの子どもたちを怯えさせるとは、まさに、神の如し技。海を割った預言者、モーセもびっくりだ。グッドボーイ、やっぱり君は本物の賢者かもしれないな。わたしは、津波ごっこをするグッドボーイの様子が微笑ましく、思わず声を出して笑っていた。

一方、ブチャのユニセフテントには、いつもわたしを真顔で見つめてくる2歳の少年がいた。

彼の、なにもかも吸い込むような瞳にまじまじと見つめられ、わたしは、なぜか居心地が悪くなった。わたしは気まずさをごまかすために「プリビエート(こんにちは)」と、少年に挨拶をした。しかし、彼はなにも反応をせず、ただただ真顔でわたしを見つめてきた。

その少年は、わたしに会うたびに人形のように固まり、わたしを見つめてきた。あまりにも凝視されるので、なぜかいつも申し訳ない気持ちになる。なぜ君は、いつもわたしを見つめてくるのだろうか? アジア人だからか? 彼になにか悪いことをしただろうか? なんかごめん。なぜかそう申し訳なく思っていた。少年に見つめられると、なんだかまわりの空気が壁と化して、実体化して押しつぶされてしまうような、そんな息苦しさを覚えた。しかし、少年がそんな目で見つめるのはわたしだけではなかった。

優等生のアナスタシアが彼に本を読み聞かせても、少年は、無表情でアナスタシアを見つめていた。

「ブチャの子どもは3パターンに分かれるわ。まず、一組目が戦争ごっこや避難ごっこをして戦争で遊ぶ子どもたち。このタイプの子どもが50%ほど。次に、前と同じように笑顔で遊ぶ子どもたち。一番悲しいのは、亀のようになってしまった子どもたち。怖くて、こうらにこもり、動くことができない。そんな子どもたちもたくさんいるの」。ユニセフテントで子どもを世話するリーザが、そう教えてくれたの日思い出す。

多分、この少年が亀のようになってしまった子どもの一人なのだろう。まだ2歳だから、正確にブチャでなにが起きたのか理解はできていないはずだ。だけど、戦争が変えてしまったブチャの空気や、お母さんの悲しみに暮れる様子を見て、肌で戦争を感じた結果が、彼の無表情なのだろう。なにしろ、少年のおじいさんはロシア兵に処刑された可能性が高いのだから。

2月24日

「すぐにブチャを避難するんだ」

少年の母ダリナに、隣町、アントノフ空港のあるホストメルで兵隊をしていた兄から電話がかかってきた。

その電話を受け、ダリナは2歳の子どもを連れて、すぐさまウクライナの別の地域に避難した。しかし、ダリナのお父さん、少年のおじいさんはブチャに残った。故郷を守るためだ。ダリナのお父さんは正規の兵隊ではなく、領土防衛隊に入隊して、一般人として故郷を守ろうとしたのだ。

「ブチャで虐殺があったのは、ブチャ市民に銃がたくさん支給され、ロシア軍が激しい抵抗に遭い、戦闘になったからですか?」ウクライナ現地に行ったジャーナリストとして、このような質問を日本で何度かされたことがある。答えは否、ブチャの人たちに話を聞く限り、市民に基本武器はなかった。

アントノフ空港があるホストメルと違い、ブチャには特別な軍事施設はなかった。だからこそ、いとも簡単にロシア軍に占領されてしまい、地獄と化した。

「領土防衛隊の父に銃などの武器や防弾チョッキはもちろんのこと、ヘルメットすらなかったわ。それでも、病院を守るためにロシア軍と戦ったの」

そんなダリナのお父さんに、ブチャの市長は、市民のため、クッキー工場でパンを焼くように頼んだ。食料の確保も、ブチャを守るための大切なミッションだ。お父さんは了承した。

「祖母がクッキー工場の近くに住んでいたから、パンを、祖母のために焼きたかったのだと思う。だから……お父さんは残ったのだと……」。インタビューの際、ダリナはいまにも泣き出しそうな表情で、静かに、そう語った。

2月末、ブチャのクッキー工場でお父さんはパンを焼きはじめた。このエリアはとりわけロシア軍からの攻撃が激しかった、とダリナは語っていた。

3月4日、激しい爆撃の末、クッキー工場を含む周辺エリアはロシア軍に占拠された。そして、この日がお父さんとダリナが電話で話した最後の日となった。

3月5日、クッキー工場にいたお父さんの同僚がお父さんを目撃している。それが、お父さんが目撃された最後だった。

3月20日、お父さんを目撃した同僚は、クッキー工場から避難。お父さんは行方不明となる。

3月末、ロシア軍はキーウ地方から撤退した。しかし、お父さんは見つからなかった。

4月10日、150〜300もの遺体が見つかった聖アンドレ教会の集団墓地から、お父さんの遺体が見つかった。後頭部には銃弾が撃ち込まれていた。これは、お父さんがロシア兵に処刑された可能性が高いことを意味する。

“愛している”

発見されたお父さんの携帯には、ダリナへの最後のメッセージが残されていた。しかし、ネット回線が悪く、ダリナの携帯にメッセージが届くことはなかった。

「世界でいちばんのお父さんだった。子どもの世話も助けてくれた。なにより、私のお父さんだから」。ダリナは、感情を抑えるように、ゆっくりと一点を見つめて、そう語った。

「この街には、子どもや若い夫婦がたくさん住んでいるの……。なのに、なんでこんなことになってしまったのか、本当にわからないわ」

ダリナにユニセフテントでインタビューしているときも、まわりでは子どもたちは追いかけっこをしたり、車のおもちゃで遊んだり、本を読んだり、みんな楽しそうに笑っていた。ダリナのお父さんはいつも笑顔で、ダリナの子育てを手伝う、やさしいおじいさんだった。ロシア軍はそんなおじいさんの人生と、ダリナの家族、そして、幼い少年の心を破壊したのだ。少年は、亀がこうらにこもるように、心を閉ざしてしまった。ロシアのその行為は、決してくだらないプロパガンダで正当化できるものではない。

8月中旬

真夏のかんかん照りの最中、わたしは、ブチャの中心部でバスを降りた。

澄みわたる青空とは裏腹に、心は摩耗していた。今日も“死の通り”への取材に行かなければならない。毎日、毎日、射殺、処刑、拷問の話を聞いて、正直少しまいっていた。

宿に戻っても、ご飯を食べているときも、ロシア兵がわたしを、ブチャで出会った人を、写真で見た犠牲になった人を、アルメニア取材で出会った人を、日本の知り合いを、銃で撃ち殺す映像がひたすら頭のなかで繰り返し流れる。

ブチャで取材しているときもそうだが、自分の心を守るためだろうか?

わたしは、人が殺害される話を聞いても、その事実を理解してメモに取っても、最初のときのようにショックは受けなくなっていた。朝9時から夜23時まで、ひたすらパソコンで仕事をした日のように、なぜだか脳が鈍く動いているように感じる。麻痺しているのか?ただ、頭が押し潰されるようにいたい。偏頭痛のような感覚がずっとしていた。脳がミシミシいっている。そんな脳の状態でも、ロシア兵がだれかを殺害する映像が、ひたすら頭のなかでリピートし、止まらなかった。何度もその映像を悪夢として見た。夜、ゆっくり眠ることができなかった。死体やロシア兵の悪夢を見て、気づいたら、声を出して叫びながら深夜に目を覚ますことはしょっちゅうだった。休まらない。ずっと気持ちがハイなのだ。そういう場合、夜に写真の整理や記事を書く作業に集中できそうなものだが、ロシア兵が人を殺害する映像や、首を吊って顔がパンパンになった死体、過去に見聞きしたありとあらゆる映像や声が、膨大な情報の波となり、脳内を駆け巡った。結果、脳が爆発しそうな感覚に陥り、頭を抱えて蹲ることもあった。

それでも、毎日“死の通り”に話を聞きに行った。取り憑かれていたのだ。

そんなとき、爽やかな風が吹き、目の前を見たことある笑顔の女性が通り過ぎた。それは、前に取材したダリナとダリナの息子だった。ダリナは笑顔で、連れの二人の女性と談笑をしていた。少年はニコニコとジュースを飲みながら、お母さんの笑顔を見ながら歩いていて、わたしの前を通り過ぎていった。

通り過ぎていく笑顔のダリナたちを見て、気づいたら頬が緩んでいた。

彼女たちは前へ進んでいる。そのことが、どうしよもなく嬉しかったのだ。彼らのまえへ進む姿こそ世界へ伝えるべきじゃないのか? あの日、わたしは彼女たちの歩く姿を誇りに思った。彼女たちは世界の理不尽に大切なものを奪われても、決して服従しなかったのだ。それは、彼女たちにとって決して楽な選択肢ではなかったかもしれないし、前へ進む以外に選択肢などなかったのかもしれない。それでも、彼女たちが破壊され、焼けこげたビル、窓ガラスがないブチャのビルの前を歩く姿は、なによりも力強く、美しいものだった。わたしにとってその姿は、暗い海を照らす、灯台から放たれる一筋の力強い光のように見えた。いや、彼女たちの姿だけでなく、地獄のような凄惨な現実を突きつけられても前へ進む、ブチャの人々、ウクライナの人々、アルメニアの人々、世界中の人々、彼らの生き様は、わたしにとって道標となる光だった。だから、わたしも歩こう、彼らのように。あの光に向かって。そこに、答えがある気がした。わたしが長年求めている、真実が。

ダリナたちの後ろ姿を見送ると、わたしは“死の通り”へと向かい、歩き出した。