正義の行進〜旧ソ連の呪縛

ウクライナ Ukraine

正義の行進 ウクライナ イルピン 6月

2022年2月24日、イルピン在住のバレーリ(仮名)は、ブチャ北部カザラビチへの仕事からの帰り道、ブリスタビチャ村付近を車で走っていた。すると、目の前に数えきれない戦車と、装甲車が現れた。戦車や装甲車には、ロシア軍を表すZが描かれていた。ロシアから軍事侵攻してきた戦車部隊と鉢合わせてしまったのだ。なんという不運だろうか。ここで死ぬかも知れない、ハンドルを握り締め、そう直感した。しかし、目撃された以上、怪しまれないように戻ることも、止まることもできない。バレーリ(仮名)に残された道は、キーウへ侵略へと向かう戦車と装甲車の車列についていくことだけだった。それは、地獄への行進だった。

バレーリは62歳の大柄で、鋭い目つきをした男だった。バレーリが地獄を経験したのは、これが初めてではなかった。いや、彼だけではない、バレーリの両親もまた、ソ連の強制移住で地獄を見てきたのだから。地獄の果てに両親はドネツクにたどり着き、バレーリは2014年までドネツクで平和に暮らしていた。しかし、そんな彼を待ち受けていたのはドンバス戦争だった。戦火が激しくなり、バレーリは8月29日、ドネツクのゴーラ市の家から避難した。避難時、400m先にクラスター爆弾が撃ち込まれたが、バレーリは危機一髪生き延びた。しかし避難後、彼のドネツクの家は、クラスター爆弾で木っ端微塵に破壊された。彼はドネツクから避難するさい、民間人の証である“ホワイトリボン”を腕に巻いていた。

「“ホワイトリボン”を巻いていると、ロシア兵のウクライナ軍への降伏、裏切りとみなされてロシア軍から砲撃を受けるから危険だ」ウクライナ側のチェックポイントにたどり着くと、ウクライナ兵にそう警告された。

バレーリはドンバス戦争により、家、仕事、それまでの生活すべてを失った。そんなイルピンに逃げ延びた彼を再び待ち受けていたのは、皮肉にもロシア軍の戦車と装甲車だったのだ。2014年ドンバス戦争で家を破壊された人が、再びブチャやイルピンで家を破壊されることも珍しくはなかった。

2月23日、バレーリはプーチンのスピーチを聞いた。プーチンはウクライナの非ナチス化と非軍事化を助けると主張していた。そのプーチンのスピーチを聞いて、バレーリは戦争になると即座に理解した。しかし、軍事侵略ではなく、経済戦争になるだろうと読んでいた。しかし、2月24日、水道局の仕事に向かった彼の前に現れたのは、数えきれないほどのZと描かれた戦車と装甲車だった。

トラック、装甲車、戦車と数えきれないZが描かれた車が道路を埋め尽くしていた。地獄のような光景だった。いや、地獄が始まったのは2014年のドンバスとクリミアの悲劇からか、いや旧ソ連の頃からか。2014年ドンバスにやってきて家を破壊した悪魔が、再びキーウ近郊へとやってきたのだ。1台のZと書かれた車から、二人の男性が降りてきた。45歳くらいの緑の軍服を着た男と、黒い服を着た若い警察官の男が出てきた。二人とも顎の下に分厚い髭を携えている。 髭の特徴から、バレーリは二人をチェチェン人かもしれないと推測した。

チェチェン人はロシア連邦を構成する、チェチェン共和国のイスラム教徒だ。ウクライナのブチャ近郊では、ロシア軍の中でもとりわけ残虐だと恐れられていた。二人のロシア兵に制止され、バレーリは車を降りる他なかった。無視して進めば射殺されるかもしれない、いうことを聞いて車を降りても射殺されるかもしれない。

「車の荷台をあけろ」若い警察官はバレーリに指示をした。言われるがまま荷台の扉を開けて、ロシア兵に見せた。荷台には、大きな鞄が入っていた。

「カバンを開けろ!!何が入っている?」若いロシア兵は再び、そう命令をしてきた。

「鞄の中には、俺の服と下着が入っているが、そんなものが本当に見たいのか?」バレーリは語尾を強めて、若いロシア兵に食ってかかった。ロシア兵にはドネツクで家を破壊された恨みがある。そんなロシア兵がキーウ近郊に攻めてきて、バレーリは冷静ではいられなかった。

「何故そんなに怒っているんだい?パパ(年上の男性、バレーリのこと)?」若いロシア兵は、ヘラヘラとバレーリに語りかけた。やはりそうか。若い警察官のチェチェン訛りのロシア語を聞いて、バレーリは二人がチェチェンの出身だと確信した。

「何でお前はウクライナに来た?誰がお前らを呼んだ?」バレーリはキレていた。若い警官の舐めた態度に、怒りが抑えきれなかったのだ。ふざけている。ドネツクで家を破壊したロシア兵が、戦車でキーウ近郊に、ウクライナを解放しにやってきたのだ。ソ連の復活を信じて。そんなバカな話があるか。バレーリは1日たりとも、2014年のドンバスでの悲劇を忘れたことがなかった。

「1944年2月23日。何があったのか忘れたのか?」バレーリは若い警察の上官、45歳の軍人にそう問いかけた。

バレーリが問いかけた瞬間、チェチェンの上官は引きつった顔をした。1944年2月23日。それは、チェチェン人のカザフスタンへの強制移住の日だった。チェチェン人のカザフスタンへの強制移住。それは旧ソ連の時代、数えきれないほど起きた悲劇の一つだった。そして、チェチェン人にとっては恐ろしいトラウマだった。過酷な移動の途中、25%ものチェンチェン人はカザフスタンにたどり着く前に命を落とした。1930年〜1940年の強制移住で10万から40万人のチェチェン人、チェチェン人以外の少数民族含め合計112万人から191万人の人々が命を落としたとされている。

「お前の父親に電話をしろ。俺が1944年2月23日に、何があったか思い出せるように話をするから。いいから、電話をするんだ」バレーリは完全に感情を抑えることができなくなっていた。

「タバコをくれないかパパ?タバコがなくなってしまった」若いチェチェンの警察は、そんなつまらない話は関係ないという態度をし、ヘラヘラしていた。

「お前らなんかにやるタバコはねえ。持っていてもやらねえよ」バレーリは怒りに任せて若い警察にそう言い放った。バレーリの両親も強制移住で多くを失った。なぜ、強制移住や、チェチェン紛争の悲劇を味わったチェチェン人が、こんな真似をウクライナにできるのだろうか?なぜ、ソ連、偉大なる強いロシア、そんな馬鹿げたもののために、他国に軍事侵攻などしてきたのか?そう考えれば考えるほど、バレーリの怒りのボルテージは上昇していった。

「もういい。もう行っていいぞ。安心しろ。もう私たちが会うことは2度とないだろう」上官のチェチェンの軍人は、バレーリと若い警察を制止し、そう言った。チェチェンの上官はバレーリが車に戻り、先に進むのを許した。

チェチェン人二人は車に戻り、先へ進み出した。バレーリも車に戻り、ロシア軍の車の間を走った。オールドキーウハイウェイを南へ進み、アントノフ空港とボロジャンカへの分かれ道。Zの戦車と装甲車の車列はまっすぐとアントノフ空港へと進み、バレーリはボロジャンカ方面へと右に曲がった。そう、ロシアの車列はまっすぐとブチャへと向かっていった。

「チェチェン人を含むロシア兵は動揺していた。何故かだって?ロシア兵たちはウクライナ人に花を持って迎えられると信じていた。1発も銃弾を撃たずに、キーウを無血解放できると、そんなプロパガンダを信じていたんだ。だから、ウクライナ人が、正義のロシア軍に抵抗しないと信じていた。だが現実は、ウクライナにナチスなどはいなかった。ロシアなどになりたくないウクライナ人から激しい抵抗にあった。だから、あの上官のチェチェン人も驚いていたんだ。まさか、解放しにきた、救いにきたはずのウクライナ人にきついことを言われるとは思ってもいなかったはずだ。だから、奴らは俺を殺さなかった。だが状況が変わり、キーウは簡単に落とせないことに気がついた。そのストレスもあっただろうし、力づくでウクライナ人を屈服させる必要が出てきた。だから、ロシア軍はブチャで虐殺をしたのだろうよ」イルピンのおしゃれなカフェのテーブル、バレーリは険しい顔でそう語ってくれた。周りでは若く、美しいウクライナの女性たちがティータイムを楽しんでいた。

「俺のような経験は今のウクライナでは珍しくない。90%のウクライナ人がそういった経験をしているだろうさ。もっと酷い経験をしている人もたくさんいるだろう。それが、今のウクライナの現実だ」

そして、バレーリを見逃したロシア兵たちはブチャで数々の悲劇を引き起こすことになる。あまりにも悍しいブチャの悲劇を。ロシア兵たちは、歪んだ正義に導かれてブチャを訪れ、大勢の市民を惨殺することになる。ある酔っ払いチビのロシア兵は死体に向け手榴弾を投げ、死体をバラバラにした。あるロシア兵はホストメルで避難誘導のボランティアをしたセルゲイを拷問し、射殺した。そして、あるロシア兵は戦争に来たくなかった、そう言って震えていた。全ての始まりは、エゴと歪んだ正義だったのかも知れない。人間は繰り返す、愚かな過ちを。1944年2月23日、ソ連のチェチェン人強制移住のときからなにも学ばず、何も変わらない。だから、今度こそ私たちは、学ばなければいけない。