死の通りに残された母 ウクライナ ブチャ

ロシア兵に二人の息子との幸せな未来を奪われ、残された母 ブチャ Bucha
ロシア兵に二人の息子との幸せな未来を奪われ、残された母

夕暮れ時、“死の通り”ヤブランカストリートの道路は紫がかった空気に包まれていた。ロシア軍撤退からわずか3ヶ月で、道路は舗装され、数え切れないほど放置されていた死体の姿はもうない。人通りが少ない、静かな通りだ。しかし、死の通りに住む人々の心には計り知れないほどの傷と虚無が残った。その、大きな心の穴は道路や家が修復されようが、他の国の人たちがブチャやウクライナの悲劇を忘れてしまおうが、彼らの心から生涯消えることがないであろう。

「ワン、ワン」死の通りの家の門をくぐり、庭に入ると、犬が1匹物凄い勢いで吠えてきた。年配の女性ガリーナはおかしな方向に骨が曲がった飼い犬の左前脚を見せてくれた。「この犬もロシア兵のせいで怪我をしたの。だから、人を怖がるようになった。それに、車には銃弾で穴が開けられて蜂の巣みたいになった。」ガリーナは悲しそうな顔でそう語る。彼女を襲った悲劇はそれだけでない、何しろ、息子一人は拷問され処刑され、もう一人の息子は今回のロシアの侵攻により障害を負ったのだから。

紫の空気に包まれた、静かな庭。庭の所々には美しい白い花が咲いていた。「きれいな花が咲いていますね。とても、美しい庭ですね。」白い花の美しさに私は思わずそう言葉を漏らした。

「そんなことないわ。今は忙しくて庭が片付いていないから、汚いわ。息子のロマンが帰ってくる前にきれいにしなければいけないのに。」彼女は悲しそうな瞳で、庭に咲く白い花を見つめてそう答えた。

拷問部屋でロシア兵に処刑された次男とロシア兵に撃たれて障害を負った長男
写真右長男ロマン(42)、真ん中ガリーナ、左セルゲイ(40)

2月25日ガリーナの長男ロマン(42)はブチャの隣町ホストメルの店で買い物をするために並んでいた。すると、突然目の前に並んでいた男性がロシア兵に撃たれた。ロマンがその男をブチャの病院に連れていった帰り道、激しい戦闘に巻き込まれ、彼自身も砲撃を受けた。結果、16回の手術を受けることとなる重症を負い、取材当時8月上旬にもさらにもう一回手術を受ける予定があった。後何回必要かはわからない。ロマンは未だに歩くことができない。「ロマンはとても優しい子だったわ。ロマン以外は誰も撃たれた人を助けようとはしなかった。他の人も居て、車を持っていたのに。なのに、ロマンが撃たれた時、2時間も車の中で放置されて、大量出血したロマンが撃たれた時、ホストメルは火事、爆撃音、煙に、凄まじい戦いに包まれていたわ。地獄みたいな光景だった。そんな中、ロマンは人を助けて、撃たれてしまったの。」とガリーナは嘆いていた。

ロマンが撃たれた翌日、2月26日、ロシア兵はガリーナの庭を占拠した。ロシア兵たちはバンデラとゼレンスキーを探していた。「長い道をここまでゼレンスキーを探しに来たのかい?」ガリーナはそうロシア兵に尋ねた。ロシア兵はキーウの近郊の街に過ぎないブチャの端にあるヤブランカストリートの民間人の家の地下室や冷蔵庫の中を確認し、いる筈もないバンデラ主義者やゼレンスキーを探しているのが滑稽だった。ゼレンスキーがこんな民間人の家にいるわけがないというのに。「なぜロシア兵を嫌うんだ?」若いロシア兵はガリーナにそう尋ねてきた。「私は地下でおとなしくしていて、あんたたちはマシンガンを持っている、なぜ好きになる理由がある?」ガリーナがそうロシア兵に言い返すと、若いロシア兵は沈黙していたという。

「若いロシア兵は私には親切だったわ。初日に来たロシア兵はずっとここにいた。兵士のうち何人かはウクライナに親戚がいたわ。ある兵士はハルキウ大学を卒業していた。私が”何で親戚が撃てるの?”そう質問すると、若いロシア兵は”親戚は撃たない。私は投降はできない。投降したら殺される。”若いロシア兵は怯えながらそう答えていたわ。最初のロシア兵は良かった。若いロシア兵はウクライナ人と仲良くやろうとしていた。戦うつもりもなく、無血解放を望んでいた。でも、最初の3日でキーウにいけず若い兵は変わった。そして、残酷な奴らが来た。」

2月27日ロシアの戦車はガリーナの庭を離れて、イルピンへの攻撃を開始した。この通りの庭は戦車にほとんど占拠されていたが、80代のお年寄りの庭は慈悲により占拠されなかった。

次男のセルゲイ(40)はホストメルで避難を希望する住民を車で避難バスまで連れて行く命がけのボランティアをしていた。しかし、3月20日、急に連絡が取れなくなった。

だから、3月20日ガリーナはホストメルまで歩いてセルゲイの安否を確認しに行った。ホストメルの人達は「セルゲイは避難した。セルゲイは避難したがっていた。」と言っていたが避難した人たちの中にセルゲイは確認できなかった。

ある男性が、セルゲイはその日も人を地下室から避難させようとしていたと語っていた。セルゲイは数人のホストメル市民を避難バスへと連れて行った。もう一度、さらに一人でも多くのホストメル市民を連れてこようとした。しかし、市民が隠れていた地下室へ向かう途中に車を撃たれて、ロシア兵に連れて行かれた。車には銃撃の跡が残されていたがセルゲイの姿はなかった。

「ヤブランカストリートでの家の地下での地下はとても寒かったわ。私は3月20日までブチャに居た。私の息子を探したかったから。ロマンはキーウの病院にいた。ロマンに心配だから病院に来てと言われた。私は気が狂いそうだった。息子一人は行方不明、息子一人は重症、家のドアの鍵を開けて避難したわ。セルゲイがいつでも戻っても家の中に入れるように。でも、セルゲイ は帰ってこなかったわ。」

その後、ロシア軍キーウ地方撤退後の4月までセルゲイの目撃情報はなかった。最終的に、セルゲイは5人の住民が拷問され、処刑された拷問部屋、ブチャのサマーキャンプで発見された。死体の年齢層は55歳から、24歳、職業は無職、企業家、配管工、木材関連、ドアの修理業者と民間の職業の人ばかりで、軍や政府とは関係がなく、パルチザン(民間のロシアへのレジスタンス)でもない民間人だけだった。後ろで手を縛られて、拷問され、分解されていた。死因は銃撃。セルゲイ の腹にもあまりにも多くの紫の殴られた跡があり、死体の写真を見た通訳は手で顔を覆い、ショックで涙を流していた。生前はシュッとした男性だったセルゲイは、口を大きく開いたミイラのような無残な死体と化していた。

このような拷問部屋がブチャにいくつもあった。ロシアはウクライナの情報得るために人警察、軍、守衛隊、ドンバスでの戦いに参加した人を探そうとしたのだ。その過程で、多くの無関係の市民が残酷目に遭い、殺された。

「セルゲイは穏やかでフレンドリー。いつも人を助けていたわ。自分自身を忘れて。がむしゃらに人を助けたの。大人や子供を。なぜかわからない。あなたは想像できる?死体安置所で7発の受弾が撃ち込まれていた…無残な死体を見たときの気持ちが。息子の一人は殺されて、一人は病院にいるの…。」

「12日間セルゲイ は拷問されたのよ。前はもっと太っていたのに、死体は痩せこけていたわ。セルゲイは毎晩苦しんでいたと思う。今も、毎晩料理をしていると肉を見てセルゲイ を思い出すの。毎日悲しい。なんで私の息子が…。ロマンは撃たれた人を病院に連れていく必要がなかった。他の人も居て、車もあったのに、彼だけが病院まで運んだ。他の人は何もしなかった。人を助けようとしたから二人とも…。」

「何で、この戦争が必要なの?何のために?最低な戦争。ロシアのミサイルでの攻撃は続いている。ホストメルにもキーウにも。キーウにはロマンがいる。ミサイル攻撃はきっと続くでしょうね。ロシア兵は汚い靴下を家に置いて行ったわ。でも、全ての靴、靴下からバッテリーまで家のものを全て掠奪して行ったわ。何でバッテリーが必要なの?意味がわからない。奴らは突然撤退したわ。撤退する時は一瞬だった。ロシアのウクライナ解放後、最初は雷が鳴る度に戦車がまた来たと思ったわ。私は奴らが戻ってくるのが怖い。夜はいつも怖くて眠れない。」

「世界中の人はブチャの真実を知る必要がある。またロシアがブチャに来て、私に残虐なことをしても誰も助けてくれないでしょう。アメリカ人、ヨーロッパ人、ウクライナ人、誰も助けてくれない。私自身で守らなければならない。それでも、私はブチャの真実を伝える必要がある。セルゲイは生きている頃毎月お金をくれて、年金の足しになった。ロマンもセルゲイ もホストメルにいたわ。爆撃や戦争がなければ私たちは幸せだったのに。」

「私は強くならなければならない。ロマンを守らないといけないわ。私が泣いたらロマンも失う。私が頑張ってロマンを守らないと。想像できる?一人の子供を埋めても、家で泣く余裕もない。ロマンを守らないと。」。ガリーナはロマンが帰ってきたときに、綺麗な家で迎えられるように、庭に花をたくさん植えようとしていた。ブチャは悲劇ばかりが切り取られることが多いが、セルゲイやロマンのような英雄が居たこと、息子を亡くしても強い気持ちで前へ進むガリーナのような母親がいることこそ世界に伝えなければならない。そして、そんな彼女達の幸せな未来を戦争が奪ってしまったことこそ。

母との誓い 

「あなたは痩せ過ぎていて、可哀想よ。私はあなたのお母さんよ。遠慮せずに食べて行きなさい。」残された母ガリーナは取材が終わると、サラミにチーズ、トマト、甘い焼き菓子、パンなどの晩ご飯を机に用意してくれた。

悪いからと、遠慮して何度も断るも、その度に「あなたは痩せ過ぎ!!食べなきゃだめよ!!」と言われて、晩ご飯をご馳走になることにした。

いや、本当は素直に嬉しかったのだ、自分のことが痩せていると心配してくれる親戚はもちろんのこと、両親など私にはいなかったから。

「あなたは私のお母さんよ。」お世辞でもそう言ってくれるガリーナの優しさが本当に嬉しかったのだ。私には愛情を注いでくれる母などいないのだから。

「あなたは何故、遠い国まで来てインタビューをしているの?」ガリーナの質問に、私は自分の生い立ちや、父の自殺、家庭環境、トルコで見たクルド人やシリア難民との出会い、イランやイスラエルで見た世界の理不尽などの話をした。だから、こんな世界の理不尽とそんな理不尽で虐げられて苦しんでいる人たちがいつことが許せなく、それでも力強く生きる人たちの姿を伝えたいのだと。

「あなたは可哀想だわ。でも、本当に正しいことをしている。ここまで、話を聞きに来てくれてありがとう。本当に素晴らしいことよ。」

ガリーナはそう言って、もっとたくさん食べなさいとサラミやチーズ、トマトや焼き菓子をドンドン取り皿によそってくれた。

俺が可哀想って…。貴方は息子一人を拷問され、殺されて。もう一人の息子もロシア兵に撃たれて重傷じゃないか…。インタビューでは泣かなかったが、ガリーナの優しさにご飯を食べながら泣いてしまった。

それに、褒めてもらえたのが嬉しかったのだ。私は父が亡くなるまで、仲違いをしていた。褒められたことなどなく、いつも情けないと言われていた。父親が首を吊り、親に褒められるという事は私にとって生涯叶わないものになった。いくら、割り切ろうとしても、年月が流れても、歳を重ねても、私の心に空いた暗い虚無の穴は満たされる事はない。そんな私に、ブチャの死の通りの残されたお母さんはお世辞でも私は貴方のお母さんだと言って、優しさを差し伸べてくれた。

そんな人が、残酷な世界の理不尽で息子達との明るい未来を奪われた。そして、そんな現実を前にしてもなお、この私に手を差し伸べてくれるのだ。その差し伸べられた手は本当の愛情だった。そんなお母さんの嘆きや悲しみから目を背けられるはずがない。見てみぬふりなど出来はしない。

「10年後会いに来なさい。貴方の10年後を見てみたいわ。どんな人間になったか。だから、また来なさいね。」ガリーナは私にそう言ってくれた。10年後私の年齢は拷問され、亡くなったセルゲイ(40)の年齢を超えて、撃たれて歩けなくなったロマン(42)とほぼ同じ年齢だった。セルゲイはホストメルで一人でも多くの人の命を救おうとして、命をおとし、ロマンは撃たれた人を病院へ運び歩けなくなった。二人とも命をかけて人の命を救った紛れもない本物の英雄だ。10年後私は二人の英雄と母ガリーナに正面から顔向けができる生き方をしているだろうか?正直、命をかけて人の命を救う英雄になると、断言できるほど私は強くない。だけど、絶対にブチャの現実から、ウクライナの現実からは目を背けない。それが、手を差し伸べてくれた母と私との誓いだ。

「貴方は痩せすぎだからもっと食べなきゃだめよ。これを持って行きなさい。」ガリーナは袋いっぱいに紅茶、乾パン、砂糖、缶詰などの食料を詰め私に手渡してくれた。白く美しい花が咲く庭で、私はガリーナに別れを告げた。この白い花の美しさは、彼女の強さ。ロシア軍の生み出した血では、この白い花は汚せなかったのだ。私はこの光景を忘れない。これは誓いだ。ブチャを書くのはこの私だ。すかした上から目線の記者でも、パフォーマンスばかりの支援野郎でもない、ブチャの友であり、息子であるこの私だ。絶対に本当のブチャは私が書く。