母と娘を失った夫婦 ウクライナ ブチャ 

ブチャ Bucha

母と娘を失った夫婦 ウクライナ ブチャ 8月

イエレナ(59)は夫のアリャッグ(ヴィカの夫、処刑されたアリャッグとは同名別人)と共に、ヤブランスカストリート沿いにある、ガラス工場エリアのアパートの一室で暮らしていた。アパートの裏には、小さいながら緑に囲まれたささやかな庭がある。庭に寄り付く、ぴょこぴょこと駆け回るかわいい猫たちに餌をあげるのが、二人の些細な生きがいだった。

そんなイエレナは戦争の2週間前、コロナを患い、2週間ほど家で過ごした。2月24日、コロナが治り、職場であるイルピンの図書館へ向かおうとしていた、ちょうどそのとき、戦争が始まった。

戦争初日、午後4時までいっさい爆撃の音を聞くことがなく、戦争が始まったということを実感できなかった。しかし、午後4時以降爆撃の音が鳴り響き始めた。今にして思えば、あれは、クラスター弾の音だ。しかし、戦争初日、平和に暮らしていたイエレナに、どんな音が、なんの爆弾なのかわかるはずもなく、ただただ爆撃音に恐怖して、震えていた。

2月26日、憂鬱な気持ちから少しでも気分転換をするため、夫のアリャッグと近くの湖まで散歩に出掛けた。ヤブランスカストリート沿いにある湖は、そう大きな湖ではないが、緑に囲まれた美しい湖だった。穏やかに波打つ水面を見れば、戦争という恐ろしい非日常に、突如放り込まれたストレスが少しでも楽になるかもしれないと、そう考えていた。しかし、現実は真逆だった。湖手前の高台から空を眺める。すると、ロシアの戦闘機がジトゥーミル(ウクライナの街)の方向から、キーウへと飛んできた。そして、イエレナたちは、戦闘機が3発爆撃をする様子を目撃した。その、映画のような光景を目撃して、イエレナは、これが戦争なのだと、初めて理解した。彼女たちは戦争の目撃者になった。

戦争が始まってもスーパーマーケットは開いていたがパンは無くなっていた。戦争状態に陥り、なにがこれから起こるのかわからない。人々は皆、焦っていた。そんな状況下で薬局は閉まっており、人々は薬を入手することができなくなった。しかし、この地域には子供やお年寄りがたくさん住んでいる。薬はどうしても必要だった。地元民たちは、領土防衛隊に相談をして薬局のドアを開けて薬を病院に移した。みんなで協力してリストを作り、必要な薬を必要な人に配れるようにした。フェイスブックなどを駆使し、民間人、役所の公務員、皆で協力した。ロシア軍が攻めてきた恐怖に街は包まれていたが、ブチャの人々は、団結して助け合った。今まで挨拶すらしなかった近所の人とも挨拶をするようになった。それが、絶望と恐怖に包まれた非日常という暗闇のなか、わずかな希望だった。皆がいるから、きっと大丈夫だ。

3月3日朝、イエレナと夫アリャッグは、病院へ薬を取りに行った。家に戻ると、近所の人たちがパンを持ってきてくれた。本当にありがたい。しかし、戦争という闇のなか、魔物たちは、着々とブチャに近づいていた。

12時40分頃、突如ロシアの戦車がヤブランスカストリートに現れた。道路ではなく、線路からやってきた。40台ほどの戦車がこの地域を取り囲み、イエレナたちの団地のまわりにも、6台の戦車が来た。数えきれないほどの戦車がヤブランスカストリートの道路を通り過ぎて行く。戦車がゆっくり進み、その後ろからロシア兵がやってきた。ロシア兵は戦車で商店を砲撃して、服を略奪し始めた。「おうおう、なんて綺麗な服だ!!」。ロシア兵は、そう叫んでいた。まるで、映画の悪党のようだ。いや、その姿はまさしく、獣だった。

イエレナたちは団地の1階に住んでいた。恐ろしい現実を前にして、イエレナは恐怖に身を包まれていたが、現状を確認するため、カーテンのわずかな隙間からロシア兵の蛮行を目撃した。悪夢だ。まだ昼間だったが、その光景はまさしく、悪夢だった。しかし恐ろしいことに、その光景は紛れもない、逃げようのない現実だった。

獣のようなロシア兵の恐ろしさに、イエレナは、トイレの鍵を閉め、閉じこもった。ほとんどの住民はすでに地下シェルターに避難していた。しかし、イエレナたちは避難するタイミングを逃していた。ロシア兵がその気になれば、部屋に押し入ることも、鍵を閉めたトイレのドアを破壊することも、武器を持たぬイエレナたちを殺害することも、すべて簡単にできるだろう。そんな危機的状況で、イエレナにできることは、家で震えながら、嵐が過ぎ去るのを待つことだけだった。

一方その頃、たくさんの人が薬をもらうために病院にいた。ロシア兵は病院の人をひざまずかせ、両手をあげさせ、屈服させた。その後、病院にいた人たちを一列に並ばせたが、後に解放した。ロシア兵は、地下のシェルターに避難した人をチェックし始めた。ロシア兵はバンデラ主義者(ナチの思想を継ぐ、独立派。ロシア兵は、ウクライナをナチから解放しにきたと主張していた。バンデラ主義者やナチなど、ブチャにはいないというのに)と、かつてドンバスに住んでいた人を探していた。

ロシア兵は、死の通りの真ん中に位置する、9階建ての大きな団地から民間人を追い出し、民間人に“ホワイトリボン”をつけ始めた。ここでは、“ホワイトリボン”をつけた人々は、ロシア兵がすでにカウントした民間人という意味だ。市民はロシア兵に、“ホワイトリボン”をつけていれば撃たれないと、そう説明されていた。

「なんでここに来たんだ?」。あるブチャの市民は、ロシア兵にそう尋ねたという。

「あなたたちを解放しに来たんだ」。ロシア兵は、そう答えた。一体なにからブチャの市民を解放しに来たというのだろうか?

ロシア兵に占領された死の通りでは、カーテンを開け、窓から外を見た人たちは射殺された。それは、ロシア兵がヤブランスカストリートの住民に課したルールの一つだった。ルールを守らないものは死刑。しかし、そんなルールをイエレナたちは知らなかった。あとからロシア兵に伝えられたのだ。窓から外を見るだけで殺される、そんなシリアスな状況だと、イエレナたちは知らなかった。しかし、ロシア兵はなにも知らないヤブランスカストリートの人たちを容赦なく射殺した。解放という、正義の名の下に。

「毎日、近所で3人は理由もなく殺されたわ。おばあさんは歩行器を使い、歩いているだけで殺された。湖に、水を汲みに行って殺された人もいる。夫のアリャッグが、水を汲みに行ったときも2発銃撃が鳴り響いた。もう夫は帰ってこないと思った。でも、夫が無事に戻ってきたときは、信じられなかった」

ある日イエレナの夫アリャッグは水を汲みに行くため、タンクを二つ持ち井戸へと向かった。井戸へ向かう途中、少しばかり疲れたアリャッグは、右手と左手それぞれに持っていたタンクを地面に置いて、休憩をした。その瞬間、銃声が鳴り響き、通り道の林から、銃弾がアリャッグめがけて飛んできた。しかし、幸運にも銃弾はアリャッグのお腹をかすめてそのまま飛んでいき、林のなかに消えていった。すぐさまアリャッグはタンクを持ち、一目散に、井戸めがけて逃げ出した。

「友達は足を打たれて怪我をしたわ。子供だってロシア兵に撃たれたのよ!!家族が通りを歩いていて、両親と二人の子供、4人が殺害された。撃たれて負傷し、病院で亡くなったおばあさんもいる。3月15日には、2人の死体を見た。アリャッグ(イエレナの夫とは別のヴィカの夫で元受刑者のアリャッグ)と、ヴァシャの二人は、車で水を汲みに行こうとして撃たれた。ヴァシャの死体はガレージの近くで転がっていて、アリャッグの死体は車のなかにあった。3発もの銃弾が撃ち込まれていたわ。二つの銃弾は心臓に、一つは頭に打ち込まれていた。お湯を沸かしているとき、銃撃音を聞いたわ。占領最終日にロシア兵は、憂さ晴らしにたくさんの家の窓や車を撃ち、破壊した」 イエレナは、ロシア兵占領下のヤブランスカストリートで経験したことを、彼女のアパートの前で鬼気迫る表情で語っていた。彼女の後ろのアパートの壁には、数えきれない弾丸の跡が残されていた。ロシア兵が発砲したものだ。酔っ払ったロシア兵が、家の前で銃を乱射したのだ。

「ロシア兵は面白いわ。あいつらは私たちを解放しに来たと言い、街を破壊し、略奪し、人を殺した。あいつらはなにをしに来たんだ?」 イエレナは語尾を強めて、そう語った。 

3月12日、夫のアリャッグと共に死の通りの西部にある、夫アリャッグの母の家を目指して歩いていた。義母は死の通りの西部で、一人で暮らしていた。ロシア兵占領下の死の通りで、年老いた女性が一人で暮らすのはあまりにも危険だ。少しでも義母の安全を確保できるよう、自分たちの家に移そうとしていたのだ。

当時、死の通りは死体まみれだった。線路のまわりにはたくさんの死体が散乱していた。自分たちが長年暮らしてきた場所で、死体が散乱している光景を目にするなど、つい一ヶ月前は想像すらしていなかった。しかし、そんな悪夢のような光景のなかを実際に歩いていた。初めは、気が狂いそうに思えたが、そんな状況にも慣れてきていた。人間の適応力というものは恐ろしいものだ。イエレナたちは道を塞ぐ一つの死体を避けた。多分、3月の初めに亡くなった人の死体だ。もう一つの死体は、多分、3月9日に行方不明になった知り合いの死体。なんで彼は死んだ?車を運転していただけなのに。避難のために、車をガレージに取りに行っただけ、それだけなのに。死体に埋め尽くされたヤブランスカストリート。もう慣れた光景だったはずなのに、顔見知りの死体を発見して、頭のなかに、疑問や、怒りが湧き上がり、止まらなくなった。当時、ブチャ市民は死体の埋葬をロシア兵に許されなかった。故に、ブチャはロシア軍からの解放当初は、多くの、無惨な死体で埋め尽くされていたのだ。なぜ、死んだ人たちを埋めることすら許されないのか?私たちがなにをしたというのか?

イエレナは義母の家に着くまでに5〜6体の死体を見ていた。その時点で嫌な予感はしていた。義母の家に着くと、嫌な予感は現実のものとなった。義母は床に倒れ、死んでいた。義母の家の窓からは死の通りを見渡すことができた。きっと、なにも知らずに窓から外の様子を見ようとして、スナイパーに射殺されたのだろう。ロシア軍のスナイパーは、ヤブランスカストリートのそこら中にいた。義母は働き者で、毎回、休みの日はイエレナたちをご飯に呼んでくれていた。優しい義母だった。なぜ義母は死ななければならなかったのだろう?義母を助けることはできなかったが、せめて、ちゃんと埋葬してあげたい。イエレナたちの願いは、それだけだった。

ウクライナ人のボランティアに義母を埋めて良いか問い合わせるため、市役所に行った。聖アンドレ教会に埋葬するために、ボランティアは死体を集めていた。街の中央にある、聖アンドレ教会の大きな墓穴に、65〜67体の死体が埋葬されており、もう一つ掘られていた穴にも、45体ほどの死体が埋められていた。庭にはさらに、2体のウクライナ兵の死体も埋められていた。あまりにも死体が多すぎる……。これでは義母の埋葬ができない……。それが、イエレナの率直な感想だった。こんなにも大量の死体を目にする日が来るなど、考えたこともなかった。大量の死体を見ること自体もかなりのショックだったが、義母の死体を埋葬することすらできないという現実に、悲しみを通り越し、絶望するほかなかった。

イエレナは、義母の死体を聖アンドレ教会へと埋葬する許可をもらうため、3月12日から18日まで、毎日、ボランティアのいる市役所へと通った。ブチャの正式な墓地への埋葬はロシア兵に禁止されていた。表向き、地雷などが大量に埋められており、危険だというのが理由だった。そのため、本来聖職者の死体を埋葬することしか許されていない教会に、市民たちは、死体を集めるほかなかったのだ。占領下のブチャでは、教会という聖域の他に、自分たちの家族や友人、愛するものたちを埋葬してあげられる場所が存在しなかった。それが、聖アンドレ教会が世界中で有名な集団墓地になってしまった理由だった。愛する人を安らかに眠らせてあげることすらできない。なんと悲しいことであろうか。人間らしい暮らし、いや、それどころか人間の死すら軽んじるロシア軍のこの行為こそ、彼らのいう正義の解放なのであろうか?イエレナは砲撃が鳴り響くなか、毎日市役所に通った3日後、3月15日、ようやく義母を埋葬する許可を得ることができた。しかしその日、ロシア軍は、市役所を襲撃した。

「酷すぎてすべての内容を言うことはできない」。イエレナは、なにかに怯えるような表情で、そう語っていた。ロシア兵は市役所を囲み、物を殴り、蹴り、パソコンを破壊した。そして、書類やデータを持っていった。さらにたくさんの戦車と装甲車がやって来て、電話を破壊し、ボランティアを人質にし、食料が保存されていたガレージを長時間爆撃した。不運にもその日、イエレナは携帯電話を持っていた。そのため、もしロシア兵に尋問され、電話が見つかれば殺されてしまう。イエレナは、市役所前のベンチに座っていたが、恐怖のあまり、身動き一つ、唾を飲み込むことすらできなかった。ただ下を向き、鳩を見つめていた。平和の象徴である鳩を見ているはずなのに、イエレナの側で、ロシア兵たちは暴虐の限りを尽くしていた。どこに平和などあるというのか?

結果、埋葬する許可を得ていたにもかかわらず、ロシア軍の襲撃により、その日、義母を埋葬することはできなかった。ロシア占領下のブチャでは、遺族や友人の死体を埋葬することすら命がけだったのだ。

最終的に義母を聖アンドレ教会に一時的に埋葬できたのは、さらに、3日後だった。3月18日、霊柩車は母の死体を含めて、たくさんの死体をヤブランスカストリートから回収した。すべての死体は、手を上げている状態で頭が撃ち抜かれていた。これらの死体が指し示すのは、市民が手を挙げろと命令されて、処刑された可能性が高いということだ。

死体を回収した霊柩車がビルの庭を去ると、ロシア兵8人が乗る戦車と遭遇した。ロシア兵の戦車と霊柩車は向かい合い、霊柩車のドライバーと乗車していた男性二人は外へ出た。イエレナは車のなかに残り、なにごともないように神に祈った。死体を埋葬するために回収してきたのに、もしかしたら、ロシア兵の気まぐれで、私たちが処刑され、死体になるかもしれない。そんな理不尽な市民の処刑を数えきれないほど見聞きしてきた。幸いにも、ロシア兵は車のなかを確認しただけだった。チェックもなく、男たちに、もう行っていいと指示を出した。霊柩車は街の中央の聖アンドレ教会へと向かった。

イエレナは、義母を聖アンドレ教会の庭へと埋葬した。イエレナ夫妻は、十字をつけた棺桶に、花をたむけた。それが、イエレナとアリャッグが、命を落とした母にしてあげられる、唯一のことだった。

ロシア軍のブチャ撤退後、4月10日、聖アンドレ教会の集団墓地の死体は、警察により引き上げられた、イエレナはその様子を見ていた。「死体は腐っていたが、分解されきっていなくて、ひどい有様だった」。イエレナは、そう、遠い目をして語っていた。

「義母はとても良い女性だったわ。働き者で、とても背が小さい人だったわ。ピースランプを集めて、野菜を育てるのが趣味だった。アリャッグは一人息子だった。とても友好的で、もてなしが好きで、休みの日は家に招いて、料理を出してくれた」

イエレナがロシア占領下で亡くしたのは義母だけでない。彼女の実の娘も、ロシア軍占領下で亡くなっている。娘のヴィクトリアは、ブチャの近くのニメシャイ村に暮らしていた。戦争が始まり、ヴィクトリアは、いつも電話で爆撃音が怖いと震えていたという。ロシア兵は、そんなヴィクトリアが住むニメシャイ村も占領した。3月7日、ロシア兵がニメシャイ村の中心通りを歩いているとき、ヴィクトリアは、心臓発作を起こし、心臓麻痺で死亡した。

「心臓麻痺……。ロシア軍の占領下で心臓麻痺ですか?娘さんは、なにか病気だったんですか?」。わたしは、ロシア軍占領下に心臓麻痺で亡くなったという話に、違和感を覚えた。いや、違和感ではなく、デジャブだろうか。健康だった人が、心不全や心臓麻痺で亡くなるとき、なにか裏がある可能性もある。そのことは、わたしが一番よく知っていることではないか。遠い記憶の片隅で、顔がパンパンになった父の死体が、わたしに問いかけてくる。心不全で死んだことにされた、父の死体が。

「戦争前、娘に病気はなかった。ずっと娘は電話で、爆発が怖いと言っていたわ。ロシア軍が村にいたから、もしかしたら外で爆発があり、恐怖で心臓麻痺になったのかもしれない」

ヴィクトリアの死体は、家の裏庭に一時的に埋葬された。

ヴィクトリアの死でイエレナの孫であり、ヴィクトリアの息子ゲナー(17)は一人ぼっちになった。ゲナーの父親は戦争前に、すでに亡くなっていた。

「ゲナーは両親がいないから、私の86歳の母と暮らしているわ。ゲナーは専門学校で勉強しているの。電気技師になるのが目標なのよ。ボランティアで軍のネット(網や紐に緑のモサモサをつけ、草のようにカモフラージュしたネット。ウクライナ軍の武器や、戦車、戦闘車両などを隠すためのネットを作っていた)。ゲナーは酒もタバコも吸わない。週末はなにをしてるんだろうね?」

「ロシアの侵攻により、家族を二人も亡くされてどう思いますか?」

「もちろん、とても悲しいわ。でも、人は前へ進まないといけない。孫がいるし。私は進まなければいけないの。他になにができる?」。イエレナは強い瞳をして、彼女が働く、イルピンの図書館でそう語った。彼女が働くイルピンの街は、ロシアがキーウ地方に進軍してきた際、ウクライナ軍にとって、キーウを守るための最後の砦となった。結果、激しい戦闘が行われ、ロシア軍により数多くの建物が破壊され、瓦礫の山と化した。2022年、あの夏、わたしが取材していた頃、イルピンの人々は、そんな瓦礫と化した家やビル、店を黙々と片し、修理をしていた。

家族や友人をなくしている人も少なくはない。それでも、遅かれ早かれ前へ進み続けるしかないのだ。理不尽に、なにかを突然奪われた人々に、他に選択肢などない。それが、ウクライナの現実だった。

アリャッグの疑惑 ウクライナ ブチャ 8月 

「そこの林の木の手前。これがヴァシャたちの埋葬されていた場所だ!!」

「ここで、私は撃たれたんだ!!幸いにも弾丸はお腹を掠めて飛んでいった。その瞬間、私は走って井戸へ逃げたんだ!!」

「これがロシア軍の置いていった弾薬などが入っていた箱だ!!そこに戦車がいた!!」

イエレナの旦那アリャッグは、よく喋る男だった。ロシア軍の塹壕、爆撃した場所等、いろいろな所へ案内してくれた。

「これはロシア軍の非常食だ。缶詰もあるし、紅茶もある。日本へのお土産に持って行ったらどうだ?」

野原の真っ只中、ロシア軍の戦車が待機していた穴のまわりに残された、ロシア兵たちの食事。アリャッグは、てつかずの缶詰や紅茶をこちらに差し出し、屈託の無い笑顔で、そう提案してきた。アリャッグからしたら、遠い日本から来たわたしに、せめて物珍しいお土産でも持たせてあげたいという親切心なのだろうが。ロシア軍の缶詰には“Армия России”ロシア語で、ロシア軍と書かれていた。こんなものを持ち歩いて、ウクライナの警察や兵隊に職質を受けたら一発でアウトだ。ロシアのスパイかシンパだと思われかねない。

「ロシア軍の食料を持っているのをウクライナ軍に見られたら、問題になりそうだから、遠慮しておきます」。わたしは苦笑いで、そう答えた。

アリャッグはとてもフレンドリーな男で、個人的に大好きだった。そして彼は、異常なほど早口だった。ロシア語がわからないわたしからしても、マシンガンのように彼の口調が早いのが、彼の話し方を聞いていてわかる。通訳も、あまりにも彼の言葉が早すぎて、「アリャッグの話が早すぎて、私でもなにを言っているかわからないのよ」と、たまに困り果てて笑っていた。

「娘のヴィクトリアはロシア兵に殺されたんだ」。妻のイエレナがいないとき、アリャッグは急に、神妙なで面持ちでそう言い始めた。

「??なにを言っているんですか?ヴィクトリアは心臓麻痺で亡くなったんですよね?イエレナは、そう言っていましたよ?」。わたしは、彼の言葉の意味がわからず困惑した。イエレナの話と違う。

「ウクライナ政府に心臓麻痺と判断されたから、心臓麻痺で死んだことになっているんだ」

「どういうこと?」。わたしはそのとき、彼の言葉の意味がわからなかった。

「アリャッグとイエレナは、ヴィクトリアの亡骸を、家の裏庭から、ちゃんとしたお墓に埋葬する際に、司法解剖ができなかったの。司法解剖するお金を工面できなかったから。お金がなくて、司法解剖できていない人は他にもたくさんいるわ。行政の診断は適当だと言われているわ。アリャッグは行政がくだしたヴィクトリアは心臓発作で死亡したという診断を疑問視しているの。イエレナは受け入れて、前に進もうとしているみたいだけど。気になるわね。まだ調査は続けるんでしょう?」。通訳は、帰国直前に、そう教えてくれた。後に、彼らと同じガラス工場地区に住む、夫を射殺されたヴィカに話を聞いた際、ヴィカも行政のくだした死因の判断が間違っていると嘆いていた。ヴィカの夫アリャッグ(本エピソードのイエレナの夫アリャッグとは別人で亡くなっている)も、すぐ近くで射殺され、銃声も聞いているのに、爆発物の破片で亡くなったと行政に処理された、そう嘆いていた。ロシア兵に民間人が射殺されたのであれば、これは紛れもない戦争犯罪だ。しかし、爆発に巻き込まれたとなれば、戦争犯罪にならない可能性が高い、そう、ヴィカはいまにも泣きそうな顔で訴えていた。「なぜ夫は射殺されたのに、爆発に巻き込まれて亡くなったと診断されたの?射殺なら、これはロシアの戦争犯罪よ。なぜ行政はロシア兵の侵した罪を庇おうとするの?」。彼女は必死に、そう語っていた。

戦争犯罪の、処刑の証拠を、行政の腐敗、能力不足で無かったことにされたのだ。射殺という戦争犯罪をなかったことにするなど、人を殺したという、重い罪をなかったことにするなど、到底、許されていいはずがない。

話は若干逸れてしまったが、イエレナとアリャッグの娘、ヴィクトリアの話に戻そう。ロシア軍がヴィクトリアのいたニメシャイ村を占拠していたのは4ヶ月も前だ。ヴィクトリアの死体はすでに、ちゃんとしたお墓に埋葬されている。いまさらニメシャイ村になにか証拠が残されているとも思えない。ただ、ニメシャイ村で占領下に残っていた人に話を聞けば、なにか気になる証言が得られるかもしれない。なにか、真実への手がかりがあるのかもしれない。再びブチャを訪れるときに、また話を聞きたいな。今回はもう時間と金がない……。悔しいな。イエレナとアリャッグとは何度か会って、少し仲良くなっていただけに、余計に悔しかった。個人で取材を行っているフリーのジャーナリストは、皆通る道だが、予算がなくなれば取材を続けることはできず、帰国するほかない。

残された遺族が、家族が亡くなるとき、なぜ死んだのか、本当の理由が知りたい、真実を知りたいと願う気持ち。その気持ちをわたしは痛いほど知っていた。しかし、死者は沈黙している。話すことはない。話すことができないのだ。だからこそわたしは、ジャーナリストとして、いや、家族が亡くなった本当の理由が知りたい、その切実な気持ちが理解できる遺族仲間として、アリャッグの友人として、少しでもアリャッグが義理の娘の死に納得がいくように手伝いたかった。なにかしたかった。だが、そんなわたしの思いは正しいのだろうか?

イエレナは、娘の心臓発作による死を受け入れて、前へ進もうとしている。いまさら掘り返すことになんの意味があるのだろうか?掘り返したところで、わたしのような無力な人間が、真実に辿り着くことなどできるのだろうか?むしろ、イエレナが懸命に前を向いて生きているというのに、彼女の前向きな思いに、水を差すだけではないだろうか?だったら、なにもしない方が、受け入れて前に進もうとしているイエレナのためにはいいのではないか。正解とは何なのだろうか?わたしはいつでも迷っていた。迷っているのは、イエレナの前で娘の死因への疑問を口にしなかったアリャッグも同じなのだろう。きっと、イエレナも。

「オーー##########ショウ、ショウ###」

あの夏のある日、わたしがブチャの市役所で、ブチャの市長への取材を終え、市役所を1階に降りると、たまたまホールにいた、イエレナとアリャッグが満面の笑みでわたしに声をかけてくれた。なにかの手続きに来ていたようだ。あのとき通訳がいなかったため、彼らがなにを言っているのかほとんどわからなかった。だけど、連日、家族や友人を亡くした人たちに重い取材をして、あまりにも残酷な話ばかりで、心が荒んでいくわたしにとって、あまり通じなかったとはいえ、笑顔で二人とコミュニケーションをする時間は、わずかだが、心が癒される時間だった。かけがえのない、大切な時間だった。二人は市役所の受付の人に、ショウはわたしたちのために、わざわざ日本から取材に来てくれたジャーナリストなんだと、笑顔で紹介してくれた。わたしはまだまだ無名で、実績もない。だから、そんな風に紹介されるのがどこか恥ずかしくて、照れ笑いをしていた。でも、ジャーナリストだと紹介してもらえて、なんだかとても嬉しかったのを、今でも鮮明に覚えている。アリャッグとわたしは、偶然再開できたのが、なぜだかわからないがとっても嬉しかった。わたしたちは嬉しさのあまり、テンションが上がり、市役所の前でスペインのカメラマンを捕まえて、イエレナ、アリャッグ、わたしと、3人で並んでいる写真を撮影させたほどだった。

彼女たちのために、どう動くのが正解なのだろうか?占領下、心臓麻痺で亡くなったヴィクトリアの死の真相が知りたい。それは、わたしのエゴなのだろうか?あの日、市役所の1階で見た、素朴なイエレナとフレンドリーでよく喋るアリャッグの、満面の笑顔を思い出す。とにかく、いつの日かブチャに戻ってきたときには、必ずアリャッグとイエレナに、また会いにこよう。そう思った。