こんにちは、フォトジャーナリストの小野寺翔太朗です。
ウクライナや、消滅したアルツァフ共和国を取材して、新聞や週刊誌、経済誌、WEBメディアに記事を寄稿しています。
2026年、1月26日には著書『声なき声』が刊行されます。
今日は、私がなぜ戦地を取材するフォトジャーナリスト、戦場カメラマンになったか、どのようにフォトジャーナリスト、戦場カメラマンになれるかお話しします

戦争で消滅したアルツァフ共和国取材

ウクライナ 虐殺の街ブチャ取材
フォトジャーナリストや、戦場カメラマンに興味がある人、人生を生き直したい人、単純にこのお話に興味がある人に読んでいただけたら幸いです。
①きっかけ 父の自死
8年前、父が自ら命を断ちました。
それは、私にとって、言葉にできないほどショックな出来事でした。
私と父は仲違いしていて、数年間連絡をとっていませんでした。
なぜなら、私は定職にも就かず、リゾートバイトをして日本中をプラプラしていたからです。
情けない、といつも言われていました。
実家が機能不全家族だったというのもあります。
しかし、あれほど気が強く、私にとって立ちはだかる壁であった父の自死は私にとってとてもショックなものでした。
もう父に認められることも、褒められることも、喧嘩することすらできないということは、私の心に、生涯埋まることのない空白を作り出しました。
私は機能不全家族で生まれましたが、父もそうでした。
の私は、自分人生も父のように終わる、運命は変えられないのだと、そう、世界に言われている気がしました。
そして、それが原因でわたしは弟と喧嘩別れし、妹とは会わなくなりました。家族はバラバラになり、後に父が建てた黄色い家は売られた、と噂で聞きました。わたしは家族と帰る家を失いました。そのことは、わたしが取材活動を始めたことに大きく関係しているのだと思います。
②現実逃避の海外放浪の旅
父が死んだとき、私は、父が自分の人生を後悔したんだろうな、と思いました。
「まともな人生を送れ、夢なんて追っているやつは、貧乏になって野垂れ死ぬんだ」
それは父の口癖でした。にも関わらず、父は自死しました。
だから、私は後悔したくない、父とは違う生き方をしよう、そう思いました。
そこで、30歳までに世界一周がしたいと思っていたことを思い出し、どうせリゾートバイトなんてしてプラプラしているんだ、もうどうにでもなれと、海外放浪の旅にでることにしました。
しかし、その旅で、私は数多くの人々に出会いました。


キルギスの子どもたち
あるタイ人の家族は、私を親戚のように家に受け入れてくれました。
あるキルギスの子供達は、私に笑顔と、人生で一番幸せな日々をくれました。
あるクルド人のおばさんは、「私はあなたのお母さんよ」、そう言って、毎日料理を私に作ってくれました。
異国の人々の温もり、優しさ、笑顔に触れるうちに、私の心の中で、なにかが変わっていきました。
そして、トルコでは、シリア難民の人たちに出会い、交流をしました。
私は彼らが故郷の街を空爆され、国を追われた事実にショックを受けました。
それでも彼らは、笑顔で私にチャイをご馳走してくれました。
その光景に私は衝撃を受けました。
私は、日本にいる頃、自分が人生で一番不幸で、悲劇のヒーローだと思い、腐っている部分がありました。そして、心を折られて、日本から逃げ出しました。父も心を折られて、自ら命を断ちました。
しかし、シリア難民の人たちは、私たちよりも遥かに壮絶な経験をし、それでもなおキラキラと輝く笑みを浮かべ、私を”フレンド”と呼び、チャイを奢ってくれるのです。
なんで、そんな現実を前にして笑えるんだ? なんで、異国の東洋人である私に優しくできるんだ? なんで、心が折れないんだ?
私の心は、彼らの生き様を前にして、揺らぎます。
そして、トルコで、少数民族の鼻の高いアルメニア人に恋をします。
それが、すべての始まりでした。
しかし、コロナが流行し、各国のロックダウンが始まり、私の現実逃避の海外放浪は終わりを迎えます。
③第二次ナゴルノ=カラバフ戦争勃発、
フォトジャーナリストを目指して
コロナ禍で旅を終えた私は、中東のノンフィクションを読み漁ります。
その中で、ジャーナリスト桜木武さんの、『シリア戦場からの声』と、小松由佳さんの、『人間の土地へ』という本に出会い、感銘を受けます。
世界にはなんてすごい人がいるんだ。
そうだ、これだ、こんな生き方が私もしたいんだ。
そうやって取材したことを伝えて、世界中の私の心を救ってくれた人たちに恩返しするんだ!!
そう思い、戦地の取材を志すことになります。
2020年、アルメニアとアゼルバイジャンの間で第二次ナゴルノ=カラバフ戦争が勃発します。
私は、21世紀に戦争が起きること、片思いをしていた、鼻の高いアルメニア人の女性のような人たちが戦争に巻き込まれていることにショックを受け、なにかがしたいと思うようになります。
2021年、コロナ禍が終わりを迎えつつ時、私は、ジャーナリストになりたいという思いを抱き、アルメニアに、ナゴルノ=カラバフ難民の取材へと赴きます。
そして、100人のナゴルノ=カラバフ難民の人と話す、ナゴルノ=カラバフ難民100人取材を行います。

一家の大黒柱のお父さんをアゼルバイジャンのドローンに殺害された、ナゴルノ=カラバフ難民の家族
私は、日本ではあまり報道されていない、ナゴルノ=カラバフ戦争で故郷を追われ、難民と化し、ある人は家族すら戦争に奪われたという人々の現状、思い、声にショックを受けます。
彼ら、彼女たちの声こそ、伝えなければいけないーー
そう思って取材を続け、ナゴルノ=カラバフ難民、100人の人に取材を行いました。
しかし、どうしたらメディアに記事を伝えることができるのかもわからず、記事を寄稿すること、彼ら、彼女らの声を、日本のだれにも伝えることはできませんでした。
現地の人との、日本に彼らの声を伝えるとういう約束も果たせず、彼らの声を、無かったことにしてしまったのです。
取材を終えても、なにもすることができなかったのです。
そして、どうしていいのかもわからず、当時NOTEに、ナゴルノ=カラバフ100人取材を投稿し続けていました。
④2022年、ロシアのウクライナ侵攻開始
ジャーナリストへ
そんな中、ロシアによるウクライナ侵攻が開始されます。
ロシアの砲撃の様子、逃げ惑う人々、ニュースで流れる映像に私はショックを受けます。
なにより、約束を果たせなかった、声を伝えられなかった、ナゴルノ=カラバフ難民の人たちの、嘆きが、声が、生き様が頭に思い浮かんできました。
今度こそ、なにかをしなければ、彼らの声を伝えなければならない。
そう思い、ウクライナに取材に赴き、虐殺の街ブチャと最前線から5キロ手前のハルキウを取材します。

ウクライナ ブチャ 娘の遺体を庭に埋めたアントニーナ
あるとき、直接見た遺体のトラウマで、夜、叫びながら起きた日もありますし、あるときは、500m近くにミサイルが落ちてきて、震えるながら夜を過ごしました。
そして、とうとう新聞や週刊誌に記事を寄稿することができ、現地の人の声を、悲しみを、わずかながら日本に伝えることができたました。
どうやって、メディアに記事を寄稿するのか?

コネがある人は別として、メディアにコネのない私がどうやって記事を寄稿したのか、その方法をお伝えします。フォトジャーナリストに興味がある人の少しでも参考になれば幸いです。
① 現地へ赴く
まずは現地へ赴かないと、どうしようもありません。
現地に入れるかどうかは、近くまでいかないとわからないので、とりあえず、隣国へ行きましょう。
戦地へ入れなくても難民の人の声を聞くなど、取材の方法はいくらでもあると思います。
私がウクライナに初めて入国した方法は、隣国ハンガリーで難民取材を行い、仲良くなった家族がウクライナへ帰るということで、共にウクライナへ入りました。仲良くなった家族には保証人になってもらいました。
一番大変なのは、正直、お金の部分だと思います。当時私は、住み込みのリゾートバイトで貯めていました。
もし、フリーランスでジャーナリストを志すなら、取材費は高いので、大赤字になるのは覚悟しましょう。
②協力者を探し、とりあえず取材をする。
フリーランスが初めから、メディアにお金を出してもらい取材をするのは不可能でしょう(コネでもなければ)。
とりあえず、取材をし、成果を出しましょう。
1番の難関は、通訳をしてくれる協力者探しです(現地語ができる人は、通訳はいらないかもしれませんが、現地の人を紹介してくれる協力者は必要不可欠でしょう)。
英語力が高い、というよりも、信頼できるのか、自分と合っているのか、ちゃんと質問を翻訳してくれるのか、時間が合うのか、などの自分としっかり取材をできる人であるのかが一番大切だと個人的に思います。
英語力がすごく高くても、やる気がなかったり、てきとうな協力者とは取材はできないと思います。
協力者を探す上で、大切なのは、現地で拠点を作ることだと思います。
そして、信頼できる協力者とともに、がむしゃらに取材を行いましょう。
③プレゼンを作成
取材の概要をまとめた、プレゼンを作りましょう。
④メディアに電話をする
コネもなにもなければ、とりあえずメディアに電話をしましょう。
インターネットや書店の雑誌から、編集部の電話番号を探して、そこへとりあえず電話をします。
一番大事なのは、メディアの編集の方の心に響くキラーフレーズが作れるかだと思います(自分も知りたいです)。
100件中95件は、相手にされないでしょう。
酷い扱いを受けることも、しょっちゅうです。
それでも、心が折れないように、自分の取材してきたことを信じて、現地の人との約束を信じて電話をしましょう。
そうすれば、話を聞いてくれる人、興味を持ってくれる人が、現れてくれるかもしれません。
そして、会っていただくためのアポイントを取り、実際にお会いして、編集のかたが興味を示してくだされば、記事を寄稿できるという流れです。
私は、このような過程を得て、初めての記事をメディアに寄稿しました。
これが、正解というわけではありません。
あくまで、私がこうして記事を寄稿しただけという話です。
英語がお上手な方は、海外のメディアに売り込んだ方がいいと思いますし、紹介のしてもらえるツテがあるなら、紹介してもらって記事にした方がいいと思います。
いろいろなやり方があると思いますが、なにかを取材して記事にしたい人で、私のやり方が少しでも参考になっていただけたら幸いです。
約束を果たす
当時、たしかにわずかながらブチャの記事を寄稿することができましたが、伝えられたのはブチャの悲劇だけでした。ナゴルノ=カラバフ難民の人々の悲劇や苦悩、ブチャの人々の悲劇ではない一面、懸命に生きる姿などは、伝えることができませんでした。

彼らとの約束を果たすために、私は原稿を執筆し、営業を続けました。
そして、とうとう2026年1月26日に『声なき声』として、著書を出版いたします。彼ら、彼女らの声なきこえが一人でも多くの人々に届くことを願っています。
それでも、すべての声が伝えられたわけではありません、声なき声を伝えられるように、世界中の私の心を救ってくれた人たちに恩返しできるように、まだまだ精進していきたいと思います。

