生きのびた猫と老婆 ウクライナ ブチャ

ブチャ Bucha

生きのびた猫と老婆 ウクライナ ブチャ 2022年 8月

「この子(猫)はモルカって言うんだよ。ここらへんを彷徨っている猫だったんだけど、餌を与えていたら懐いちまったんだ」。ジェニャ(84)はモルカを抱きながら、満面の笑みでそう語る。そのクシャッとした笑顔から、猫と過ごすささやかな日々が、とても幸せなんだろうなあと想像することができた。

ジェニャは、ロシア軍が2022年3月にこの場所を占領したときもずっとここにいた。

「私はずっとアパートにいたんだ。幸いにも、ロシア兵はアパートに来なかったよ。窓は銃弾で破壊されて、あそこの木は砲弾で殴り倒されたんだ」。ジェニャは奥にある、折れてギザギザになった、数十センチほどの木の残骸を指さした。

「あそこの貯水タンクは砲撃で破壊され、私の部屋は洪水に巻き込まれたんだ。そんななか、キャンプファイヤーで調理して暮らしていた。パンはなかった。ブチャの市長はなにもしてくれなかったよ。あのロクデナシはここに来なかった。1ヶ月間ここにはなにもなかったさ。私は生き残っただけ」。ジェニャは猫を撫でながら、ため息混じりでそう語る。後ろの茶色い壁には、銃弾跡の穴がいくつも残されている。

「猫のモルカも、あなたと一緒に占領下のブチャを生き残ったんですね」

「ああそうだよ。モルカも私と一緒に生き残ったのさ」ジェニャはモルカを撫でながら、ニコニコとそう語った。ジェニャはまるで、母親が息子を撫でるようにモルカを撫でている。モルカも、疲れ果てた少年が母親に甘えるような顔をしていた。その光景は、この世界の、幸福と平和を凝縮したような光景だった。ジェニャとモルカの微笑ましい姿を見て、ジェニャが生き残ったのはもちろんのこと、モルカも生き残って本当に良かった、そう、わたしはほっと胸を撫で下ろした。

「イルピンのウクライナ軍とブチャのロシア兵は、毎日砲撃を撃ち合っていた。あそこに座っていただけの男は殺された。あそこの団地に住んでいたヴァレンティーナは、ドアの前で打ち殺された。ヴァレンティーナは看護師だったさ。とてもいい女性だったのに。ロシア兵がまた戻ってきたら、私たちはどうしたらいいんだい?また戻ってくるかもしれない。役所はなにもしてくれない。ドイツとの戦争のとき、ドイツ兵はロシア兵ほど悪くなかった。ドイツ兵は子供には優しかった。ドイツ人は、SSユニット以外はそんな悪いことをしなかった。未来はどうなるかわからない。もし、ロシア兵がまたきたら、私はどうしたらいいのかね……」。ジェニャは、遠い目をしてそうぼやき続けていた。

「あそこの犬はヴァレンティーナの犬さ。ヴァレンティーナは殺されたけど、犬は生き残った」ジェニャは、道路の向かい側の団地を指差した。あの穴の空いている白い鉄のドアの前で、ヴァレンティーナは射殺されたのだと、ジェニヤは教えてくれた。ヴレンティーナが殺害されたドアの前で、黒茶色の雑種犬は空を見つめて、光のない瞳で座り続けていた。なにかを待ち続けるように。もし、ヴァレンティーナが生きていたら、この犬も、モルカのように愛する人に撫でられる、幸せな時間を過ごしていたかもしれない。そう思うと、胸が痛んだ。