死の通りで消えた息子〜ブチャ虐殺の証言

ウクライナ Ukraine

消えた息子 ウクライナ ブチャ 8月

 

団地の横にある可愛らしい小さな民家。人の背丈ほどの門のなかは、緑の葉っぱやピンクの花などの自然で満たされていた。ささやかだが美しい庭だ。ベンチでは、黄色い猫が気持ち良さそうな顔をして、あくびをして、日向ぼっこをしている。ブチャではありふれた美しい庭。夕暮れ時。しかし、庭作業をしていたタチアナ(67)に起きた悲劇もまた、この街ではありふれた悲劇だった。

ロシア軍が来なければ、そんな悲劇とは無縁な、のどかで、緑が美しい街だったというのに。タチアナはいまにも消え入りそうな瞳で、ぽつりぽつりと語り出した。

「私の唯一の願いは、息子を見つけること」

タチアナの息子ユリ(38)は、2014~2016年にドンバスで戦った兵士だった。2月24日、ロシア軍によるウクライナ侵攻が始まると、ユリとタチアナは自分たちのアパートから、近所の地下シェルターがある、亡くなった母の家に避難した。

3月3日昼12時、ユリは、テレビを見るために自分のアパートに戻ろうとした。ロシア軍が刻一刻と近づくなか、少しでも情報を集めておかなければならない。

「危ないから行かないで。ここにいて。お願い」

タチアナは家を去ろうとするユリを止めようとした。しかし、タチアナの願いは届かなかった。ユリは制止を振り切り、去っていった。そして、愛する息子が二度と帰ることはなかった。

数時間後、ユリと電話をした。

「すべてのドアを閉めろ、ロシア兵はもうここにいる」

それが、最愛の息子との最後の会話だった。

その後、何度も、何度も電話したが、電話がユリに繋がることはなかった

ユリがいなくなり数日後、砲撃が鳴り響くなか、タチアナは急いでアパートへ荷物を取りに行った。もしかしたら、ユリが部屋にいるかもしれない。そんな一縷の望みもあった。しかし、現実は残酷だ。部屋にユリはおらず、ロシア兵が散らかした物が散乱していただけだった。部屋には、この場所をロシア兵が拠点にした痕跡も残されていた。棚はすべて窓へと移動されており、窓はブランケットでカバーがされていた。なぜここが拠点に? この部屋は団地の1階部分だというのに? タチアナは違和感を覚えずにはいられなかった。違和感はそれだけではない。ロシア兵は、食料を詰めたスーパーのカートを部屋に持ってきていた。机の上には、料理やスウィーツ、飲み物が残されていた。キッチンには調理した食材のカスが残されている。

机に残された料理から、ロシア兵たちがガスを使い調理をしたと推測することができた。しかし、このエリアでは3月4日にガスが使えなくなった。ロシア兵がこのエリアに来て、ユリがアパートに戻ったのは3月3日。ということは、ロシア軍がこの部屋にいたのは、3月3日と3月4日の間、わずか1日だけということになる。それに、机に残された食べかけの食事……ロシア兵は、なにかに怯えて逃げ出したのか? ロシア軍が占拠したこのエリアで、ロシア兵はなにに怯えていたというのか?

「ロシア軍が来た後、男が一人、ユリの家の窓を指差していた」

近所のガリャは、その様子を目撃していた。もしかしたら、ユリの家を指さしていた男がユリをロシア軍に売ったのかもしれない。ガリャは、ブチャ解放後にタチアナにそう話したという。

だれかがロシア軍にドンバスで戦った息子を売ったのか? そんな密告は、当時のブチャでは珍しいことではなかった。

そう証言したガリャも、占領下のブチャで息子を失っている。しかし、ガリャの証言よりも遥かに衝撃的な証言を、ユリと同じ団地の3階に住むインナがしてくれた。インナは自分の部屋から、ロシア兵が団地に来る様子から、ユリの部屋に入ろうとする所まで、一部始終を目撃していた。

「ロシア兵たちは線路から真っ直ぐにこのアパートへと向かってきた」そう、インナは語ってくれた。なぜかロシア兵は道も完璧に把握していた。ほかにも部屋はたくさんあるというのに、脇目も振らず、ピンポイントに、ユリの住んでいるこのアパートに来たのだ。

アパートのまわりを、たくさんの戦車が取り囲んだ。一台の戦車が、大砲をユリの住むアパートの入り口に向けた。ディーゼルの臭いが辺りを包んでいた。バルコニーの前と、このアパートの裏にも戦車が一台ずつおり、戦車の上には7人のロシア兵がいた。興味深いのが、一人、頭のおかしな男が戦車の上で踊っていたことだ。

1、2、3でロシア兵はドアを破壊、ユリの部屋がある棟の1階の3部屋中、2部屋のドアを破壊した。しかし、ユリの部屋のドアだけは破壊することができなかった。そのため、夕方6時から深夜12時まで、ロシア兵たちはユリの部屋のドアをノックし続けていた。

「なぜかロシア兵はリスト(領土防衛隊やドンバスで戦った兵士の載った)を持っていた。ほかのアパートは一切破壊せずに、真っ直ぐに、ピンポイントにここに来たの。スパイがいたとしか思えない」

インナにインタビューした際、興奮気味にそう語っていた。

ロシア兵たちはアパートすべての部屋のベルを鳴らしたが、インナたちにはなにもしてこなかった。

3月4日、近くの給水塔が砲撃されて倒れた。ロシア兵たちがドンドンとインナの家のドアを叩いてドアを破壊しようとした。

「ドアを壊さないで!!」。インナがそう叫ぶと、若い17〜18歳くらいのロシア兵たちは大爆笑して、部屋に入らず階段を降りていった。

ユリのアパートの前でインナの話を聞いていると、突然、アパートの2階の窓から、おばあさんが顔を出して話しかけてきた。

通訳のアンナやインナと少し言葉を交わすと、おばあさんは手で顔を覆い、涙を流しながら語り出した。

3月3日、6人のロシア兵がおばあさんの家を訪れ、銃口をおばあさんに突きつけた。

「皆ひざまずけ、電話を見せろ!!」。そう指示を出した。

ロシア人は、ユリがいる1階の部屋に聞こえるように、床をタップして大きな音を鳴らし出した。

「なぜここから避難しない」。ロシア兵はおばあさんをそう怒鳴りつけた。

「お金がないから、お金がないから避難できない」。おばあさんは、そうロシア兵に訴えた。それが、ロシア軍占領下のブチャに残った多くの人たちの現実だった。避難するお金がない、避難する場所のあてや、避難後に生活する家のあてがない、避難したところで、仕事を見つけ、新天地で生活していける保証がない。お金がないため、ロシア占領下のブチャや、当時、最前線数キロ手前だったハルキウから避難することができない人たちは大勢いた。ロシア軍が差し迫るという状況での、ブチャやハルキウからの避難に関しても、たしかに、経済格差が存在した。

隔てることのできない、命の格差が。

地獄のようなブチャから避難しない理由は、ほかにもいくつもある。家や財産をロシア兵などの略奪から守るため。家族をまつため。ユリの母タチアナは、後者だった。

タチアナは、息子が消えてから10日間ユリをまっていた。

しかし、いくら電話をしても、ユリが電話に出ることはなかった。

タチアナは、電気もガスも水もないなか、キャンプファイヤーで暖を取っていた。凍てつくような冷気のなか、少しでも暖を取るため、タチアナは、息子ユリのジャケットとズボンを着た。

そんなタチアナを心配して、ユリの友達が様子を見にきた。「あなたは逃げなきゃだめだ。ドンバスで戦った人のお母さんだから。ロシア兵に知られたら、なにをされるかわからない」。ユリの友達は真剣な眼差しでそう語った。その言葉で、タチアナはブチャの死の通りからの避難を決めた。

「5分で荷物をまとめてきてください。ジュラフモール(ブチャからイルピンに入って、すぐに存在するショッピングモール。余談だが、このショッッピングモールは戦争で黒こげの瓦礫の山と化した)から避難バスがでます」

すぐに本人確認書類とパン、小さなボトルに入った水を用意し、ユリの友達タラスと、見ず知らずの女性オルガ、その子どもと一緒に避難をはじめた。

団地から死の通り、ヤブランスカストリートに出ると、大きな緑色の戦車が待ち構えていた。緑色の戦車は、壊れて焦げ茶色の残骸と化していたほかの戦車とは違った。戦車の上で、チェチェン人のカディロフツィの戦士らしき男がマシンガンを持っていた。民間人と証明する“ホワイトリボン”を巻いていたが、目の前に立ちはだかる戦車を見て、タチアナの体を恐怖が包み込んだ。通りを歩くだけで、罪のない多くの市民が射殺されていた。一歩でも動けば、ロシア兵に銃殺されるかもしれない。恐怖で、早く動くことができず、ゆっくりと歩くことしかできなかった。チェチェン人がマシンガンを動かすのを見て、人生が終わったと死を覚悟したが、無事にその場所を通り抜けることができた。

ブチャ、イルピン、ホストメルには、爆撃が雨のように降り注いでいた。砲撃音が鳴り響く死の通りを進み、ロシア兵のチェックポイントにたどり着いた。そこで、ロシア兵は座っていた。

「こんにちは。通ってもいいですか?」と声をかける。しかし、ロシア兵は沈黙していた。「ありがとうございます」と、オルガが声をかけて、最初のチェックポイントを通りぬけた。

さらに先に進むと、線路の近くに、ロシア兵の第2のチェックポイントがあった。

「こんにちは」と声をかけると、ロシア兵は無視をした。

「ヤブランスカストリートを通ってもいいですか?」と質問をすると「行かないでください。右へ曲がってください。もし、真っ直ぐヤブランスカストリートを進むと、撃たれる恐れがあり危険ですから」。若いロシア兵は、そう説明してくれた。

若いロシア兵の指示に従い、通りを右へ曲がる。グルシェフカス通りの、第3チェックポイントにたどり着いた。死の通り、ヤブランスカストリートとは違い、道路にも民家にも、砲撃や銃撃によるダメージが見当たらない。同じ戦時下でも、通りが一本違うだけで、こうも状況が違うものなのかと驚きを隠せなかった。チェックポイントには、黒い制服を着たロシア兵と若い女性がいた。

「若い女性は何者なのですか? ウクライナ人だったんですか?」

若い女性がロシア兵といたという異様な状況が気になり、タチアナが話している途中で、わたしはつい疑問を口にしてしまった。

「わからない。あの女性がだれであろうとどうでもいい。とりあえず、生き延びたかったの」、タチアナは、そう語った。そして、ブチャとイルピンの境目、ブチャリバーでウクライナ兵と合流し、ジュラフモールから、バスでキーウへと避難した。

4月になると、キーウ近郊に進軍していたロシア軍も撤退していった。しかし、その後もユリの安否は確認できていない。

5月にブチャに戻ったタチアナは、ユリを探すため、医者にDNAを採取された。しかし、医者はDNAを紛失した。お役所仕事で、医者がDNAを紛失したりするという不手際も、ブチャでは珍しいことではなかった。住民たちは憤っていたが、ウクライナだから仕方がないと諦めていた。

ロシア軍撤退から4ヶ月2022年8月、ブチャではいまだに、身元不明の数多くの遺体の埋葬が行われていた。わたし自身、身元不明の12体の遺体が埋葬される様子を取材した。死体は、ハルキウで食べた缶詰のニシンの酢漬けのような色をしており、運ばれている途中に、死体が動くたび、米粒のような白いものがポロポロと落ちた。それは、ウジだった。

死体に湧いたウジ。あたりには、生魚を数週間放置したときに発する臭いの、20倍くらい酷い腐敗臭が立ちこめていた。その光景は、見るに堪えないグロテスクな光景だった。多くの人たちが、ロシア軍の軍事侵攻により名もなき死体になった。もしかしたら、彼らにも待っている家族や、恋人がいるかもしれない。そんな人たちは、ロシアの軍事侵攻により、ウジが大量に沸く、見るに堪えない名もなき死体に歪められてしまった。そんな名もなき死体は、最愛の人たちに見守られることもなく、役所とメディア関係者の前で埋葬された。埋葬される様子はメディアの晒し者にされた。人としてではなく、埋葬された死体として。名もなき死体は、最終的に、ブルドーザーで人工的に、あっけなく、埋葬されていった。

2022年8月、「ユリの死体はない、捕虜になっているかもしれない」と、警察はタチアナに告げた。

「3月3日ユリと別れたとき、ユリは白いストライプの入った、青いジャケットを着ていたわ。あの服装は絶対判別できるはずよ。ユリのアパートは1階だから、窓から飛び降りて逃げたかもしれない。戦車に囲まれていても逃げられたはずよ。だって、ユリはドンバスで戦っていた兵士だから。ロシア兵や戦車からどう逃げるか知っていたはずよ。もしかしたら、ベラルーシの収容所にいるかもしれない。生きていてくれたらそれでいいわ。また会うことができたら、それだけでいいわ」。タチアナは、力強く、そう語った。しかし、彼女の瞳は、今にも消え入りそうだった。

「夢を見るの。だれもいないスタジアムに、ユリが一人で軍服を着て座っている夢を」と、タチアナは切ない表情で言った。

「ユリは私をいつも気遣ってくれた。私を、一度も罵倒したことがないわ。ほかの子は、親に悪口を言うのに。ユリは一度も言わなかったの。庭の木をカットしてくれたし、祖父の家の床を掃除してくれた。ユリがドンバスから帰ってきたとき、耳が悪くなっていたわ(後に聴力は戻るが)。それでも、ドンバスから生きて帰ってきてくれて本当に嬉しかったのよ」。

彼女は軍服を着た、たくましいユリの写真を見せてくれた。たくましく、心やさしいユリが、タチアナと再会できる日を心から願う。取材を行った庭は、色とりどりの花と、緑の葉っぱが咲いている美しい庭だ。ベンチの上で、黄色い猫はあくびをしている。母親思いのユリは、この庭の木をカットしていた。この美しい庭の木を……愛する母親や家族のために。

2024年3月29日、1年半ぶりにタチアナからメッセージがきた。

“こんにちは、ショー。まだ興味があるなら、私の悲しみをあなたと共有したいと思います。私の息子ユーリは、2022年3月3日にロシア人に射殺され、ガレージで焼かれました。“

ユリは、占領下のブチャで、すでに亡くなっていた。彼女の息子にもう一度会いたいという願いは、叶うことがなかった。