アンナ〜ロシア人虐殺の真実を求めて

世界の果てのあなたへ

アンナロシア人虐殺の真実を求めて ウクライナ  イルピン 6月

あの夏、バベルの塔の前で、わたしは、アンナと出会った。

世界には、光と影があるように、何事も一面だけではない。世界はそんなに単純ではない。

彼女との出会いは、ウクライナ、ブチャのもう一つの面との出会いでもあった。

そうだ、今でもはっきりと覚えている。

子どもたちが楽しそうにジェンガでバベルの塔を作り、紙飛行機を飛ばしていて、紙飛行機の少女がサンキューと言ってくれた、とりわけ印象的な、あの夏の日のことだ。(第二章リーザの涙のバベルの塔)

あの日、彼女の息子はユニセフテントで折り紙教室の先生をしていた。カメラマンの夫と息子の晴れ姿を撮影するため、彼女は、隣街イルピンからブチャのユニセフテントへと訪れていた。

ああそうだ、彼女の息子は不思議な雰囲気の少年だった。口数が少なく、つかみどころがないが、折り紙がだれよりも上手な、天才肌の少年だった。

ガリーナ(ユニセフテントの)はあの日、彼女をわたしに紹介してくれた。アンナが英語を話せるからか、砲弾が飛び交うイルピンの街を生き延びたからか、たしか、そのような理由で、ガリーナはアンナをわたしに紹介してくれた。紹介してくれた理由など些細な話だ。なにより重要なのは、親ロシア派の人への取材、“死の通り”の虐殺の取材、あの夏、ほとんどの取材の通訳をアンナにしてもらったということだ。彼女がいなければ、わたしはあの夏の取材を遂行することができなかっただろう。

はじめて真っ白なユニセフテントでアンナと出会ったあの日、「英語ができる通訳を探しているんでしょう? もしよかったら、私に手伝わせてもらえないかしら?」。彼女は、そう申し出てくれた。彼女はとても親切な女性だった。

 そして、アンナとの出会いは、ウクライナ、ブチャの、もう一つの面との出会いだった。アンナはロシアにシンパシーを感じていた女性だった。

「ブチャ虐殺が本当にあったかはわからない。だって、私の弟はロシア軍占領下のブチャにいたけど、なにも見ていないし、出会ったロシア兵はいい奴らだって、そう話していたから」。出会った当初、アンナはそう語っていた。

当初、わたしはウクライナ、ブチャ近郊に住む人が、ブチャ虐殺が本当に起きたのか疑問に思っている姿に、衝撃を受けた。

アンナはロシアのスヴェルドロスク州で生まれ、ロシア人としてのアイデンティティを持つ女性だ。

2022年3月、ブチャからロシア軍がイルピンへ攻撃をしてきた際も、アンナは、病気の母を看病するためにイルピンに滞在していた。そう、あの地獄の日々を生き延びた女性なのだ。当時、彼女は近所のお年寄りたちのために、砲撃が飛び交うなか、命懸けで食料をかき集めていた。

「ウクライナ軍とロシア軍の砲撃が飛び交う様子は、まるでテニスのゲームみたいだった。お互いのコートが砲撃されたら撃ち返す。そんな感じだったわ」。彼女はそう語っていた。ロシアの軍事侵攻により、イルピンの一部が徹底的に破壊され、焦土の廃墟とかしてしまった。アンナは、ロシア軍がイルピンを攻撃し、街が破壊されたのを目撃していたにも関わらず、ロシア兵のブチャ虐殺に対して懐疑的な感情を持っていたのだ。

アンナは出会った当初、“ホワイトリボン”の話をよくしていた。

「ブチャではたくさんの“ホワイトリボン”をした人が殺されたわ」

「“ホワイトリボン”? なにそれ?」。わたしは尋ねた。

「“ホワイトリボン”はロシア寄りの人の証よ。ロシア寄りの人間だと証明するために、“ホワイトリボン”(白い布)を腕に巻くの。ブチャで処刑された人の多くは“ホワイトリボン”をしていた、ロシア寄りの人たちや、ロシア人なのよ。そんなロシア寄りの人や、ロシア人を、ロシア軍が殺すと思う? ある噂があって、ウクライナ軍が、ロシア寄りの“ホワイトリボン”をした人間を処刑したっていう噂もあるのよ。真実はわからないわ。でも、ウクライナ政府にも問題はあるわ。西側も多くのプロパガンダを流している。だからこそ、ロシア寄りの報道にも耳を傾けるべきだわ。ゼレンスキーはコメディアンの操り人形にすぎないわ。ロシアのラブロフ外相はこう言っていたわ……」

彼女のように、ロシア寄りの噂話をわたしに聞かせる親ロシア派の人間や、ロシア人はたしかにキーウ近郊にも存在した。たしかに、砲撃が飛び交うイルピンを生き延びたロシア人のアンナが話すと、一見、説得力があるように見えるが。すべては噂話。彼らのそんな噂話にはなにも根拠がなかった。なにより、黒こげに破壊された建物が沢山あるイルピンで、軍事侵攻を行っていないと主張するロシアのラブロフの主張を出してくるのはお門違いだ。とはいえ、わたしは彼女から聞いた“ホワイトリボン”の話が気になり、その後も少し調べてみた。

結果として、“ホワイトリボン”の意味するものは、場所や時期によって違った。

マリウポリから逃れてきたエリザベータは、最初、民間人の証として、“ホワイトリボン”を巻いていると安全だと、S N Sで流れてきたと語っていた。しかし後に、その情報がロシア人に利用されたのか、マリウポリのロシア兵が“ホワイトリボン”をつけていたため、民間人がホワイトリボンをつけると、ロシア兵と間違われ、ウクライナ兵に撃たれてしまう可能性があると、アゾフ兵(ウクライナ側)に教えてもらったと語っていた。

ブチャに関していえば、“死の通り”に住む、ロシア占領下で娘と母を亡くした、イエレナとアリャッグ夫妻は、“死の通り”を占拠したロシア兵が、住民の数をカウントした際に、数をすでに数えたブチャ市民に、その証として、“ホワイトリボン”を巻いていたと語っていた。

ウクライナで聞いた色々な話を統合して考えてみると、状況や場所により意味が異なる“ホワイトリボン”を、ロシア側がプロパガンダやフェイクニュースに利用したのではないかと、わたしはそう考えている。場所や時期により意味合いや状況が変わる事柄や情報は、都合のいいようにどうとでも印象操作がしやすいため、フェイクニュースやプロパガンダに利用しやすいのだと、わたしはウクライナに来てひしひしと実感していた。

「私たちはロシア人で、ロシアにアイデンティティがあるのに、ロシア語は迫害されている」。「マリウポリでは、ネオナチのアゾフ兵に、多くのロシア人が虐殺されたわ。ロシアはそういうロシア人を助けようとしているのよ。西側はそんな報道をしないと思うけど」

アンナは、そう主張していたが、「ロシアのプロパガンダがいうように、ロシア語話者やロシア人が迫害を受けることがあるんですか? ボコボコにリンチされたり、処刑されたり」

そう質問すると「身の危険は感じるわ。私が小さい頃は、イルピンにもロシア語学校が4〜5校はあったわ。でも今は一校しかない」と、彼女は答えた。

たしかに、自分の話す言葉を教える学校が少なくなるのは悲しいことだ。否定されている気持ちになるのもわからなくはない。でも、それとウクライナのナチがロシア人を虐殺しているというロシアのプロパガンダは、全く別の話だ。

「それは辛いことですよね……。実際、ロシア語話者やロシア人が身の危険を感じる迫害を受けたりすることはあるんですか? あなた自身が危険を感じた出来事はあるんですか?」

「……あるわ。一度だけ。酔っ払いにロシア語なんか話すなと言われて怖かったわ」

「……ほかにはないのですか?」

「それだけよ」

わたしが聞いた限り、彼らのいう迫害は、そのようなものだった。たしかに、酔っ払いに絡まれるのは怖いことかもしれない。でも、ロシア軍がウクライナを解放すると軍事侵攻し、街を破壊し、民間人を殺害する理由にはならない。

ウクライナの中枢、キーウ州のブチャ近郊でインタビューしたときでさえ、年配の方の多くはロシア語しか話せなかった。そんな人々がたくさんいる街では、ロシア語を話すことは当たり前のことだった。例えるのなら、東京に関西弁を話す人がいるような感覚だ(肌感覚的にはもっと、もっと多い)。しかし、そのような街で、ロシアがプロパガンダでながすように、ウクライナ語話者のウクライナ人が、ロシア語話者の人たちに、リンチや斬首などの過激な迫害をするだろうか? 東京で関西弁を話す人が、それだけで、一般の東京の人に斬首やリンチされるようなものだ。そんな残酷なことが日常生活で起きるとは考えにくい。たしかに、第二次世界大戦のように、ナチスがユダヤ人を民族浄化しようとしたという、人類史上最大レベルの過ちもある。しかし少なくとも、3ヶ月わたしはウクライナにいたが、一度も見たことがない。むしろ、ブチャで友人のロニャをロシア兵に殺害された“3度処刑された男”セルゲイは、ロニャがウクライナ語を話したから、ロシア兵に殺されたのかもしれないと、そう考えていた。

「ロシア語は話すべきじゃない」

たしかに、そういう人も少なからずいる。しかし、ロシア軍により街がこれだけ破壊され、ウクライナ人が殺されているのだ。ロシア語に少なからず嫌悪感を抱くのも、理解できない話ではない。

むしろ、多くのウクライナに愛国心がある人ですら、ロシア語を話すケースも多かった。しかし、戦争のせいで、侵略者であるロシアの言葉など話すなという差別的な人も少なからずいるというのは事実だった。ロシアは、その事実を巧みにプロパガンダに利用し、誇張する。現実と、現地の人の声とはかけ離れたフィクションが、ネット上や一部の人々のなかでは真実になってしまうのだ。

「私は3月に戦場と化したイルピンで、砲撃が頭上を飛び交うなか、近所の人たちのために食料を集めていたわ。残念ながら、ウクライナ軍の滞在したエリアで、ロシア兵はいなかったけれど、ロシア兵に会って見たかった。私はロシアで生まれて、ロシアのパスポートを持っている。だから、殺されなかったはずよ。どんな人たちか、同じロシア人として話してみたかったわ」

アンナが純粋にそう話すようすを見て、こめかみが、ちくりと痛んだ。

親切なアンナが、爆撃飛び交うイルピンを経験してもなおロシア兵と会ってみたかったと語る姿を見ると、もしかしたら、ブチャ虐殺などなかったのではないかと、つい、そう思ってしまいそうになった。当初彼女は、イルピンへのロシア軍の攻撃を見てもなお、ロシアを信じていた。

だが現実は違う。

冷静に当時を振り返ることができる、いまなら思う。アンナ、あなたがロシア兵と話すのは、多分、無理だった。あなたが占領下のブチャ、“死の通り”にいたら、ロシア兵にパスポートを見せる前に射殺されていただろう。なぜならあなたは、戦時下のイルピンで、黒い服を着て行動していたと言っていたからだ。あなたはウクライナの警察と間違われて、ロシア兵に射殺され、無残な死体になっただろう。

“死の通り”に住み、目の前でロシア兵に知人を射殺されたアッラは、知人が黒い服を着ていたから、警察と間違われてロシア兵に射殺されたかもしれないと、そう考えていた。ほかにも、黒い服を着て、多くの人々がロシア兵に射殺された、そのようなケースがたくさんあったようだ。

もし、黒い服を着たアンナがロシア兵と出会い、警察と間違われ射殺されていたとしたら、まわりの親ロシア派の人間か、ロシア人が語るだろう。

「彼女はロシアにアイデンティティを持つ人間だ。ロシア兵が処刑するはずがない。ウクライナ兵が親ロシア派を処刑した。迫害だ」

そう、ロシアにアイデンティティを持つ人が語るかもしれない。

日本の真面目な意識の高い人間はこういうかもしれない。「親ロシア派の人もいるんでしょう? マイノリティにも配慮しないと」。「歴史的にはウクライナ政府の方が先にロシア語への迫害を始めたんだ」と、物知り顔で。わたしはウクライナでの取材を終え、日本に帰国した後、ウクライナに行ったことがない人たちに、訳知り顔で、何度も、何度も上からそう語られた。

ああ、親ロシア派の人間もいるさ。だが、ロシアのいうような迫害などブチャでは受けていなかった。なにより、迫害されたロシア人を救いに来たというロシア兵も、普通に、ウクライナに住むロシア人を、ロシア語話者を射殺していたんだよ。黒い服を着ていたら。いや、黒い服を着ていなくても、金目のものを持っていたら、戦車の前を横切ったら、質問に答えたら。理由など、なんでもいいのだ。

それが、ブチャの現実だった。

ロシアの安いプロバガンダで、なかった事にはできない。わたしは、虐殺の遺族の話もたくさん聞いているし、死体もこの目で見ている。

それに、ブチャ近郊に暮らす親ロシアは派の人たちは、戦争が始まる前もいまも、ウクライナ人や、ウクライナの愛国者たちとともに暮らしている。戦時下の極限の状態では、生きるために助けあうこともあった。ロシアのプロパガンダは、そんなともに暮らしてきた人々を分断し、銃を向けあわそうとしている(実際、ロシア派とウクライナ派、その間にいる人たちで驚くべき分断があることを、わたしは2023年のウクライナ取材で知ることになるが、これはまた別の話だ)。

しかし、アンナの考えはわたしの取材を手伝うことで変わっていた。自分の愛する祖国、信じていた価値観を疑わなければいけないということ、それでもブチャの人々の語る事実を受けとめるということ。それは、自分の体の大事な一部分、脳や心臓の一部は引き剥がすような、そんな辛いことだったのだと思う。それでも、アンナは現実から目を背けなかった。

はじめて彼女がブチャ虐殺、ロシア兵による民間人殺害の遺族の話を聞いたのは、あの“嘆きの庭”(一章あの夏のブチャのエピソード)のとき、娘を44日間庭に埋めていた、アントニーナの話を聞いたときのことだ。

アントニーナの家の庭、娘のターニャが亡くなった、赤い花や紫色の花が咲く庭、神秘的な木漏れ日と、静寂に包まれた庭。インタビューの最中、ふと横を見ると、通訳をしてくれたロシア人のアンナも涙を流していた。

“嘆きの庭”でのインタビューが終わると、「信じられない……本当にロシア兵が民間人を殺害していたなんて……申し訳ないけど、もう、なにも話したくない……」と言うと、アンナは家へと帰っていた。インタビューが終わったあとも、彼女は泣いていた。

親戚や友人がたくさんいるロシア、彼女が生まれたロシア、自分の愛する祖国のロシア兵がしたこと、信じていたロシアからの報道があまりにも現実とかけ離れていて、それまで当たり前だと認識していた価値観が揺らぐ。彼女の受けたショックは計り知れない。目の前で、ロシア兵に娘を射殺された遺族が泣いているなか、娘が殺された話を英語に通訳をして、日本人のわたしに説明するのだ。わたしが彼女の立場なら、もう耐えられないだろう。アンナが涙を流して帰ってゆく姿を見て、彼女はもう通訳をしてくれないだろうなと、わたしはそう思っていた。

けれど、アンナは強かった。彼女は信じていた愛する祖国の罪を受け入れ、ロシア人として、ブチャの真実を知ろうとしたのだ。

彼女は間違いなく強いショックを受けていた。なぜなら、あんなにロシアを愛していたのだ。

しかし、「私たちは真実を知らなければいけない。だから、あなたの手伝いをさせてほしいの」。そう言って、通訳を続行してくれた。

あの夏、死の通りでの取材は残酷な話が多く、わたしの目は日に日に光を失っていった。しかし、わたしの記憶がたしかであれば、アンナの目から光が消えることはなかった。

わたしはジャーナリストなるものに向いておらず、才能がないと思うことがしょっちゅうだった。

多分、真のジャーナリストに必要な才能や資格というものがあるとすれば、それは、承認欲求でも、金銭でも、だれかや、自分自身、メディアにとって都合のいい話しを集める力でもなく、ただ、真実だけを求める強い心のことだろう。彼女の仕事はジャーナリストではないし、わたしのような自称ジャーナリストとも違う。アンナは、英語を話せるウクライナに住むロシア人の主婦だ。しかし、彼女はだれよりも真のジャーナリストに必要な、真実を求める心。そして、どんな残酷な真実でも受けとめることができる心を持っていた。彼女以上に素晴らしい、真実を求め、受け入れることができる心を持つ真のジャーナリストを、わたしは、いままでみたことがない。

興味深い話がもうひとつある、彼女の弟はユニセフテントがあるブチャ中央広場の近くに住んでおり、ロシア軍占領下のブチャを経験していた。

「なにも問題はなかったさ。砲弾もアパートには来なかった。たしかに一発はきたが、アパートの耐震も強いし、何の問題もないさ。それにロシア兵もいい奴だった。みんな大げさに話しすぎなんだ」わたしがインタビューしたとき、アンナの弟はそう語っていた。彼はロシア兵と話をしたことがあった。

3月5日、彼は日が暮れる頃、外のベンチに腰掛けていた。すると、ふたりの男性が彼に近づいてきた。彼は目が悪く、あたりが夜の闇に包まれつつあるなか、だれが近くに来たのか最初はわからなかった。しかし、近づいてきたふたり組はロシア兵だった。ロシア兵はふたりともカラシニコフの銃を持っていたが、銃口を彼に向けることはなかった。「こんにちは。家に早く帰ってください」。ふたりは強いロシアなまりのロシア語で、丁寧に話しかけてきた。

その後ロシア兵は「そうだ、店がどこにあるかわかりますか? 食料を入手したいのですが?」と質問をしてきた。

「ここらに店はない」そう、彼は手短に伝えた。

「インターネットがつながりますか?」。ふたたび、ロシア兵は丁寧に質問をしてきたので、「いや、インターネットも繋がっていない」。ふたたび、彼もそう手短に伝えたという。

「ロシア兵は丁寧な人たちだったよ。私はずっとブチャにいたが、怖いことなどなにもなかった。大事なのは強い心さ。ブチャではいろいろなことがあったと人は言うが、みんな心が弱いから恐怖であることないこと誇張しているんだ。近所のおばあさんも、ロシア兵に銃口を突きつけられたと言っているが、多分嘘だ。怖くて、銃口を向けられたと勘違いしたのだろう。ロシア人を悪いとは思わないさ。私は心が強く、中立な立場から客観的にものを見ることができる」彼は、ペラペラ、ペラペラとそう語っていた。

ペラペラ、ペラペラと語る彼に、当時、わたしは違和感を感じていた。しかし、ブチャの悲劇にそこまで触れていた時期ではなかったので、適当に聞き流していた。

「イルピンである男がロシア兵に処刑された。奴はドラッグを使っていた悪い男だったんだよ。どう処刑されたかは知らないが、多分ドラッグでハイにでもなって、ロシア兵を挑発して処刑されたのだろう。ウクライナ西部に住む私の知り合いは、私の言うことを信じないんだ。私はブチャに占領時もいたが、私のアパートではだれも死んでいないし、気をしっかり持てば何の問題もなかった。そう言っても、西部に住む連中は私の気が狂ったとか、嘘つきとかそういう扱いをする。みんな事実を誇張しているのだよ。私と違って、みんな心が弱いからね」。彼はそう語っていた。

彼は、最後までブチャ虐殺はフェイクだと主張していた。彼の住んでいたエリアにいたロシア兵の部隊は比較的穏健で、知り合いに虐殺の遺族がおらず、彼自身、ロシア兵の横暴を目撃していなかった。だからこそ、自分の見たものしか信じられず、あまりにも残酷な話を認めたくないのだと思う。

人は弱い。自分の想像を超えた現実が起きたとき、人は素直にその事実を受け入れることができない。なにか理由を求めようとする、それっぽい、納得ができるような、自分に都合のいい理由を。ブチャの取材を通して、人間の本質とはそういうものなのだと思わされることが多かった。

一方で、アンナは取材を続けるにつれて考えを変えていった。アンナがブチャ虐殺の事実を受けとめることができたのは、本当の強い心を持っていたからだろう。

しかし、そんな姉のアンナがいくらブチャ虐殺の遺族や、目撃者と話をしたと彼に語って聞かせても、彼は、「わたしは、中立で強い心を持っているから信じない、心の弱い人が大袈裟に言っているだけだ」とそう主張した。

あの夏の最後まで、とうとう彼が意見を変えることはなかった。

あの夏、アンナが手伝ってくれた最後のインタビューを終えると、“死の通り”沿いにあるベンチで、彼女は遠い目をして、彼女の胸の内を語り出した。

「ロシア兵によるブチャ虐殺は真実だったわ……。でも、一般のロシア人が悪いわけじゃない、彼らは情報をコントロールされ、騙されているのよ。私は、ロシア人としてのアイデンティティを捨てないわ。ロシアが好きだから。だから、ロシア人として真実を受けとめて、本当のことをみんなに伝えなければいけない」

彼女は“死の通り”のベンチで、そう語っていた。

あまりの人の良さに、一時期、もしかしたらロシアの工作員だろうか? と疑ってしまったこともあった。だが、それは大きな誤りだった。彼女はただ、とても強く、だれよりも正しいロシア人であろうとしたのだと思う。愛するロシアのために。わたしは彼女のことを誇りに思う。わたしが同じ立場なら、事実を受けとめられるかわからないし、受けとめたとしても、通訳の手伝いをできなかっただろう。彼女の瞳からは、最後まで光が消えることはなかった。ありがとうアンナ、あなたこそ、真のジャーナリストだ。あなたのような人の声こそ、世界は聞かなければならない。