始まりの地 トルコ ウルファ 2020年1月
結局わたしは死ぬこともなく、ダラダラと世界放浪の旅を続けた。
なにかを求めて。
言葉では形容できないなにかを――あの日、キルギスのソンクル湖で、たしかに見たなにか。決して掴むことのできないなにかを。
そして放浪の末、わたしは、トルコにあるシリア国境に近い街、シャンリウルファにたどり着く。
旧約聖書の信仰の父、アブラハムが誕生したといわれている街だ。キルギスでの子どもたちとの出会いが、わたしの新しい人生のすべての始まりだとしたら、ウルファでの出会いは、わたしにとってジャーナリストになるすべてのはじまりだった。
2019年年末年始、わたしは1ヶ月ほど、そんなウルファで過ごした。 そこでの日々を、わたしは生涯忘れることはないだろう。わたしはウルファでたくさんのトルコ人、国を持たないクルド人、シリア難民の人々、そして、一人の美しいアルメニア人の女性と出会った。いろいろな文化や民族がモザイク状に入り混じる地域で、人種や宗教、思想の違いにより、偏見やゴタゴタの多い地域だった。しかし、種族や思想、宗教が違っても、彼らに共通していたことが一つだけあった。
みな、わたしにはやさしかったのだ。わたしにとってウルファは、人も街並みもとてもきれいな街だった。しかし、わたしはなにも知らなかったのだ。
ウルファへと向かう300キロの道のり、わたしは、20代後半のトルコ人の車に乗せてもらった。彼はトルコ軍の特殊部隊の兵士で、普段はシリアに駐在している青年だった。
車のなかで見せてくれた特殊部隊のプローモーション用の映像で、銃を持った兵士たちが廃墟のような建物でなにかミッションを行っていた。そして、現地の子どもたちが、兵士たちに抱きついていた。まるで、特殊部隊の彼らはヒーローのようだった。恥ずかしながらその当時、わたしは国際情勢に関心が薄く、シリア内戦は残酷で難しいというイメージしかなかった。だからわたしは、このトルコの青年はヒーローで、シリアでI S(イスラム国)の残党と戦って、人々を救っているのだと単純に考えていた。いや、考えるのが煩わしくて、そう思い込もうとしていたのかもしれない。
屈強な兵士のはずである彼だが、話していると、とても陽気で恋人が大好きな兄ちゃんだった。彼女が可愛い、彼女に会いたいとスマホで、鼻の高い美しい彼女の写真をみせてくれた。彼の車に乗せてもらい、天に近い山の上の高原の道や、険しい砂漠地帯を進んだ。そのあいだも彼はひたすら、とめどなく恋人ののろけ話をしていた。どんなだけ恋人が好きなんだよと、彼ののろける様子があまりにも微笑ましく、わたしは彼の話を聞いて笑っていた。彼とわたしはくだらない冗談を言いあい、笑いあった。とても楽しい旅の時間だった。
砂漠の真ん中にあるウルファの街に着くと、レストランで彼とケバブを食べて別れた。
すでに日は沈みきっており、ひとりぼっちになった寂しさもあり、白っぽい石造りの建物が建ち並ぶウルファは、色がなく、暗く、怖い街だと思った。風で砂が舞っていて、うっとうしかった。
しかし、朝日が昇ると世界が生まれ変わる。第一印象と違い、ウルファはとてもきれいな街だった。日の光が白い石造りの建物に反射して、街はキラキラと輝いていた。街の真ん中には迫力のある崖があり、上にはウルファ城の屈強な白い城壁がそびえ立つ。いっぽう、崖の下には灰色のドーム状の屋根をしたモスクが建っている。モスクの前には白く輝く鋭い尖塔が並ぶ。そんな幻想的なモスクの敷地内、荘厳だが、どこか神秘的な雰囲気の洞窟がある。
この洞窟で、世界が生まれた。
なぜなら、この洞窟で、信仰の父アブラハムが誕生したからだ。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など、一神教の生みの親、信仰の父と言われているアブラハム。一神教、アブラハムを信じている信者たちを合計すると、世界の総人口78億人の半数を超える。いまもなお、一神教が理由となる紛争や政争は絶えない。だれよりもこの世界に影響を与えた男アブラハムは、ここで生まれたのだ。ここはある意味、世界が始まった場所だといえる。
敬虔なイスラム教徒たちは洞窟のなかで膝をつき、祈りを捧げる。なんと神聖な光景だろうか。そんな始まりの地で、深呼吸して、洞窟内の神聖な空気をめいっぱい吸い込む。すべてはここで始まった。そう思うと、胸がゾクゾクして、ワクワクした。世界の中心に自分がいるような、世界の真理に近づいたような、そんな気がした。
しかし、そんな神聖な空気に包まれる反面、もしかしたら、人間の罪もここで生まれたのかもしれない。そう思った。
わたしは、あの日の真実へと辿り着けなかったのだ、そんなわたしが、世界の真理になど、近づけるはずがない…。わたしは肺まで吸い込んだ聖なる空気を、ゆっくりと吐き出した。
ウルファでは、東洋人のわたしが珍しいのか、街を歩いていると人々は、「フレンド、フレンド」と英語で声をかけてきた。そして、こっちへ来いと手招きしてくれた。手招きされたほうへ導かれると、「フレンド、フレンド」とそう言って、透明の手のひらに乗るサイズのグラスに注がれた、飴色のチャイをごちそうしてくれた。ある人はとても甘いトルコのお菓子をくれ、ある人はキョフテをごちそうしてくれた。ウルファではイスラム教の教えからか、旅人のわたしに親切にしてくれる人が多く、とても居心地がよかった。そして、彼らは片言の英語で、どこからきたのか?トルコはいいところか?などと話しかけてくれた。
あるおじいさんはわたしが日本から来たというと、「日本のテレビは面白い」と言い、手持ちのスマホでバカ殿を見せてきた。どこでこんな動画を入手したんだ!!と驚いているまもなく、今の日本では放映できないようなエッチなシーンが流れた。その映像を見て、わたしと現地のおじさん軍団、そして、偶然居合わせたピンクのヒジャブをした若い女性は、ケタケタ、ケタケタと笑っていた。この女の子はこんなに笑っているけれど、イスラムの規律の厳しいウルファで、これはアリなのか?と一瞬考える。でも、言葉や文化を超えて一緒に笑いあえるって、なんて素敵なことなのだろう、そう考えたらどうでも良くなった。わたしはおじいさんや女の子とケタケタと笑い、軽い冗談を言いあう時間を満喫した。
ウルファにいた人たちはみんな友好的で、温かい人だった。わたしは日本にいたとき、そんな人の温かさに触れたことなどここ数年なかった。自己満足のためにマウントを取ったり、ストレスの解消のためにわざわざ嫌味を言ったり、人をいじめたり、自分たちの利益、金銭や性欲、承認欲求のために他人を蹴落としたり、そんな人たちにしか触れていなかった。あげくの果てに、家族でさえ、自分の醜い欲望のことしか頭にないような人間だけだった(少なくとも、妹は違ったのだろうが…)。人の悪意や嫌な部分ばかり見ていて、わたしは、心底醜い人間が嫌いになっていった。しかし、不思議なことに旅に出て、世界中の人々、ウルファの人たちやトルコの人たちの温かさに触れると、わたしは、あれだけ嫌っていた人間というものが、徐々に好きになっていった。
あるカフェでウェイターをしている青年が、仕事中だというのにわたしに話しかけてきた。これは、トルコではよくある話だった。そして一杯のチャイを出して、わたしをもてなしてくれた。彼は笑顔で、あれやこれやとカタコトの英語で話をしてくれた。そして、これまたウルファではよくあることだったのだが、セルフィーを撮ろうとわたしに提案してきた。わたしたちは、ニイッと笑い、ウルファの頭上で輝く太陽のような満面の笑みを浮かべ、スマホで自撮りした。
「僕の街はアサド政権の空爆により破壊された。大学に通っていたがやめなきゃいけなくなった」。突然、一緒に自撮りをした明るい彼は、そう話しはじめた。彼はシリアから来た難民だった。彼が話を始めた瞬間、わたしは心臓をぎゅっと掴まれたような感覚に陥った。さっきまで明るく話していた彼と、空爆、難民という言葉が結び付かず、唖然とするしかなかった。明るい青年が、遠い世界の話だと思っていたシリア内戦により、故郷を追われた事実がショックだった。そしてなにより、シリア内戦が青年の人生を破壊したという事実が、どうしようもなくやるせなく、許せないと思った。だからといって、わたしが彼にしてあげられることなどなにもなく、大変だったね、と口にするほかなかった。
しかし、このようなシリアから来た難民やエピソードが、シリアに近いウルファの街では珍しいことではなかった。
さっきまでトルコ人だと思っていた笑顔で絡んできた人が、実はシリア難民だったということは、ありふれたことだった。その事実は、わたしの価値観に大きな一石を投じた。
ウルファではほかにもいくつも素敵な出会いがあった。
わたしはある美しいアルメニア人の女性と出会った。彼女は浅黒い肌に、どこか儚げな大きな瞳、そして、高く美しい鼻が印象的な女性だった。わたしは人生でこんなに鼻が美しい女性を見たことがなかった。まるで、スイスのアルプス山脈のマッタンホルンのように、彼女の鼻は高く、美しいシャープな形をしていた。彼女は、イスラム教の敬虔な信者が多いウルファでは珍しく、ヒジャブをつけていなかった。
英語を勉強していた彼女とは、たまに朝御飯を一緒に食べた。たわいもない話をしながら、彼女とともに、ガラスでできた透明の、底が丸く球状になったチャイグラスで、砂糖をたっぷり入れた飴色の甘いチャイを飲んだ。彼女のなによりも美しい鼻を横目に、チャイの甘さを噛み締める時間は、とても幸せな時間で、彼女と朝ごはんを食べるとき、いつも爽やかな風がわたしのまわりを吹き抜けていくような、そんな心地よい気分に包まれていた。
わたしの滞在していた宿のスタッフだった、ヒジャブを巻いたクルド人のおばさんは、とても親切でいい人だった。仲良くなると、「私はあなたのトルコのお母さんよ」そう言って、いつも、特別にお昼御飯と晩御飯を作ってくれた。
彼女の作る野菜スープは温かくてやさしい味がした。いまでも、あのやさしい、体が芯から温まる野菜ジュースの味をはっきりと思い出せる。日本にはご飯に呼んでくれる親戚などいないわたしにとって、彼女が毎日ご飯を作ってくれたことが、まるで、ウルファに親戚の人ができたようで、わたしはとっては本当に嬉しかったのだ。わたしにとって、あの野菜スープのやさしい味こそが、おふくろの味だ。いまでも、心の底からそう思っている。
そんなウルファでの日々がわたしは大好きで、あの頃は毎日幸せな気持ちに包まれていた。クルド人のおばさんも、アルメニアの美しい女性も、出会ったばかりのころは自らの民族を語らなかった。少し仲良くなると、人気のいない場所で、私はクルド人、アルメニア人だと教えてくれた。なので、はじめは彼女たちの民族をなにも考えずに、彼女たちはトルコ人だと思っていた。わたしは、そのことに何の疑問も抱いていなかった。当時のわたしは、宗教や民族によるアイデンティティの違いを深く考えず、世界は単純だと、そう考えていたのだ。
イスタンブールで知り合ったトルコ人の女性に、クルド人の人たちはとてもいい人だとメッセージを送ったことがあった。すると、「あなたはなにも知らないかもしれないけど、クルド人は野蛮な民族で危険だから気をつけなさい」そうメッセージが返ってきた。こいつはなにを言ってやがるんだ。わたしは、そのメッセージに怒りを覚えた。ウルファで出会ったクルド人の人たちは、とてもフレンドリーで親切だ。それになにより、クルド人のおばちゃんはいつも美味しいご飯を作ってくれている。わたしは、友人たちが野蛮だと言われて、彼女のメッセージに怒りを抑えられなかった。
そう、当時わたしは、トルコ国内でのトルコ人とクルド人の歴史、P K K(クルド労働者党)、クルド人の迫害、そんな話などはなにも知らなかったのだ(もちろん、その後日本でクルド人を嫌う人たちがいることも)。もちろん、60万人から100万人が虐殺されたアルメニア人虐殺の悲劇などなにも知らなかった。いや、彼らに出会うまでわたしは、世界の悲劇など見たくもなく、目を背けようとしていたのかもしれない。わたしは、自分が一番不幸だと悲劇のヒロインを気取っていた。にもかかわらず、戦争や民族迫害などを、ずっと遠い世界の関係のない話だと思っていた。しかし、いざ遠い世界に来てみても、そういったものは本や映画のなかの物語だと、どこかでそう考えていた。だって、ウルファはこんなにも素敵で、みんな、素晴らしい人ばかりじゃないか?ウルファはわたしにとってはいい思い出ばかりの街だが、多くの悲劇の歴史で満ちていた。そんな少数民族の人たちとの出会いもまた、わたしの価値観に大きな影響を与えた。
いまにして思えば、あの美しいアルメニア人の女性は、アルメニア人虐殺の生き残りの末裔なのだろう、その可能性は限りなく高いのだろうと、そう思う。
そんなウルファで、わたしは、あの難民の兄妹に出会った。
灰色の上着を着た、短髪で凛々しい顔の9歳くらいの少年と、緑のもこもこのフードが付いた上着を着た少女。後ろにはピンクのヒジャブをした、お母さんがいた。あの兄妹は、芯まで冷えるように寒い夜のウルファで、薄っぺらなダンボールを敷いて、物乞いをしていた。彼らもまた、シリアから来た難民だった。
彼らは、インドや東南アジアの物乞いのように、金をくれとしつこく絡んでくるわけでもなく、ただひたすら、光のない目でこちらを見つめ、黙って座っていた。
わたしは、その目をよく知っていた。世界に失望した人の目だ。
この虚しい目をした子どもたちは、わたしにとって特別な存在になった。
あの兄妹は、夜はいつも同じ場所で、薄っぺらなダンボールをしいて、物乞いをしていた。彼らが段ボールに座っている場所をわたしは毎日通りすぎていたため、次第に顔見知りになり、少しずつだが、毎日会話をするようになった。
物乞いの子どもに恵むのは、彼らを甘やかすから良くないと言う旅人は多い。わたしは、わけ知り顔で世界を知っているように上から語る旅人を見るたびに、 「なに様だろうか?あんたたちは、なに様だろうか?」と憤りを感じた。 だれだって寒ければ暖を取りたいし、腹が減ればご飯を食べたいに決まっている。 それなのに、自分たちがいかに世界を知っているという雰囲気を醸し出しつつ、罪悪感を覚えないように、そのようなことを上から語って自分を正当化どころか、賢く、かっこよく見せようとする。そんなこざかしい旅人を見るたびに、虫唾が走った。それになにより、子どもたちになんの罪があるのだろうか?この子たちがなにをしたというのだろうか?
彼らはなにもしていない。彼らはただ生まれてきて、生きているだけだ。彼らが物乞いをしているのは、世界が残酷なせいだ。わたしにはそうとしか思えない。 いつも同じ場所にいる二人の子どもに、小銭かお菓子があれば渡した。 毎日顔を合わせて会話をするうちに、彼らに情がわいていった。彼らも、毎日ことばを交わすわたしに気を許してくれたのか、何回か会うと、笑顔で片言にも満たない英単語で話してくれるようになった。最初は、砂埃が舞う夜の寂しいウルファのような瞳をしていた彼らも、少し仲良くなると、わたしと会うたびに、にぱっあと満面の笑みを浮かべてくれるようになった。
日本にいたころ、毎日笑顔で話をする人などいなかったわたしにとって、そのことが、たまらなく嬉しかった。いつも、彼らと交流するわずか数分の時間が、わたしにとってはかけがえのない時間だったのだ。いまでも、あの日々の時間は、わたしにとって輝かしい時間であり、辛いことや理不尽な目に遭うたびに、彼らのことを思い出すもある。
冬のウルファは芯まで震えるように寒かったのに、彼らはいつも、わたしと会うととびきりの笑顔をくれた。 国を追われた子どもたちだというのに、なんていい笑顔で笑うのだろうと、わたしは胸を打たれていた。からっ風が吹くたびに、ゾクッと体の底まで震えあがるほど冷えるのに、彼らの笑顔を見ると、なぜだか温かな気持ちになった。 わたしは、彼らの笑顔が大好きだった。
数週間の交流ですっかり彼らに親しみを覚えたわたしは、毎日お菓子を買ってから彼らに会いに行くようになった。 お菓子を渡すと彼らは本当に嬉しそうに、顔をクシャッとして笑い、そんなキラキラした笑顔を見るたびに、わたしも自然と笑っていた。わたしたちは毎日しばし会話をした。彼らと過ごした時間は、とても美しく、かけがえのない、特別な時間だった。 むしろ、わたしはあの兄弟から幸せのカケラをもらっていた。こんなわたしに笑顔をくれてありがとうと、お礼を言いたいのはわたしの方だった。しかし、いつだって別れというのは突然やってくるものだ。
当時(2020年1月)トランプが大統領だったアメリカがイランとピリついた(2025年、ふたたびトランプが大統領になるとは皮肉なものだ)。 居心地が良い、聖地ウルファにはもう少し滞在したかったが、イランは、わたしにとって人生で一番行きたかった夢の国だった。イランにはイラン語で「世界の半分ほど美しい」という意味のイスファハーンという街がある。世界の半分ほどの美しさを見るのが、長年のわたしの夢だった。
アメリカとイランが戦争状態になれば、イランに行けなくなる可能性がある。そのため、急遽トルコからイランに向かうことに決めた。
最後の夜、いつもの場所にあの兄妹はいた。
いつもより冷たい風が、いつもより暗い通りを吹き抜けていた気がした。それもそのはずだ、彼らと会ったのは夜9時過ぎ、いつもより少し遅く、ウルファの街のレストランや店の多くはすでに閉まっていて、明かりがいつもより少なかったのだ。いつも通り、いや、最後のお別れだから、わたしはいつも以上に袋にパンパンに詰めたお菓子を渡した。彼らは袋パンパンのお菓子を受け取り、これでもかというくらい顔をくしゃくしゃにして、満面の笑顔を浮かべた。あの少年の嬉しそうな笑顔を、わたしは生涯忘れることがないだろう。そして、あの後悔もまた、わたしは墓場まで持っていくのだろう。わたしは、そんな少年少女の笑顔を見るのが嬉しい反面、なぜだか、罪悪感のようなものを胸に抱いていた。
「明日この街を出るから、今日でお別れなんだ」と彼らに告げる。 すると、少年がなにかもじもじとしはじめた。しばらくすると、なにか決心したような表情をし、 「靴が欲しい」と少し緊張した面持ちで、カタコトの英語でそう言った。数週間の付き合いだったが、なにかが欲しいと言われたのは、それが初めてだった。少年に少しだけ信頼してもらえたようでなぜだか嬉しい反面、彼が、裸足で、お菓子よりも靴が欲しいという当たり前のことに最後まで気づけなかった自分に失望し、そんな自分自身が、なんだかとても愚かに思えた。
思い返せば、彼はいつも裸足だった。凛と寒い真冬のウルファの夜、地面は氷のように冷たい。彼はいつも、どんな気持ちでお菓子を受け取っていたのだろうか。もっと早く気づいて、お菓子ではなく、靴を持ってきてやるべきだったのだ。
わたしは偉そうな旅人を非難し、子どもになにかしたいと言いながら、彼がお菓子よりも靴が必要だという、簡単な事実に気がついていなかったのだ。なんてバカなんだろう。彼らがいつも真冬のウルファで物乞いをしているあいだも、わたしには帰るべき暖かいウルファの宿が存在し、クルド人のおばさんはわたしに、野菜スープ(おふくろの味)などの晩御飯を作り置きしてくれていた。わたしは、その事実がどうしようもなく恥ずかしく思えた。
日本にいるとき、わたしは、父親が首吊り死体になり死んだと、自分は悲劇の主人公のようだと思うことも多かった。しかし、彼らよりわたしは、遥かに生ぬるい人生を送っていた。この少年少女たちがシリアを、愛すべき故郷を追われて物乞いをしている現実は、彼らのせいではない。とても大きく、どこまでも深い人間の業、世界の理不尽のせいだ。なぜかそのことが、とても醜悪な自分の罪のように感じた。
「そうか、寒いよな!!おし、買いに行こう‼️」。
わたしは、強い罪悪感を覚えながらも、精一杯に元気で陽気な声を出し、そう少年に告げた。わたしは、弱くて、愚かで陰気臭い男だ。だけどせめて、あの少年と少女の前では、気のいい兄ちゃんでいたかった。少年は、わたしの声を聞いて、いつも通り顔をクシャッとして笑った。
二人の兄妹を連れてウルファの街を歩き出したのが夜9時過ぎ。 時間が少し遅かったのだ。靴屋の店じまいは早く、どこも開いていなかった。 明日は午前中に飛行機でイスタンブール(イスタンブールからイランへ行くため)にいかねばならない。もう、靴を買う時間がなかった。 靴代を少年に渡そうとも思ったが、不幸なことにそのとき、わたしは大きい額のお札しか持っておらず、靴代を渡すこともできなかった。いまにして思えば、財布に入っていた100ドルくらい彼らに渡したら良かったのだ。彼らがわたしにくれた笑顔は、100ドルなんかよりずっと、ずっと価値があるものだった。お金には変えられない価値があった。しかし、その100ドル、は彼らにとってどれだけ大金だろうか。
「ごめん、もう靴屋は開いてないな。イランをまわったらまた戻ってくるからさ!!そしたら靴を買いに行こうよ」
そう、子どもたちと約束した。わたしはイランをヒッチハイクでまわったら、東部からトルコに戻ってくるつもりでいた。トルコヒッチハイク一周がまだ終わっていなかったからだ。
「うん、ありがとう。バイバイ‼️」。そんなわたしに、兄妹は笑顔で手を振ってくれた。手を振るシリア難民の兄妹の、少し寂しそうな笑顔を、わたしは一生忘れないだろう。わたしは寂しいような、なぜだか申し訳ないような、そんな気持ちで彼らに手を振った。絶対戻ってきて、君に靴を買うからね。それは、少年との、なによりも大事な約束だった。あの寂しそうに手を振る、シリア難民の少年と少女の姿、あの光景だけは、絶対に忘れてはいけないんだ。
幸いにもイランとアメリカは戦争にならなかった。しかし、コロナが流行し、わたしはトルコへは戻れなかった。 わたしは、彼に靴を買ってあげられなかった。約束を果たせなかったのだ。そのことが、今も深く心に残っている。 少年は約束どころか、わたしのことなど覚えていないかもしれない。それでも、あの素敵な笑顔と時間、そして果たせなかった約束を、わたしは一生忘れない。
ウルファを離れたわたしは、世界情勢や歴史に興味を持ち、中東情勢の本やノンフィクションを読み漁り、各地で迫害を受けるクルド人の歴史を知ることになる。トルコにより、アルメニア人の大虐殺が行われていた歴史を知ることになる。アルメニア人が住む、アルメニアとアゼルバイジャンという国が紛争状態にあると知ることになる。トルコのなかで、クルド系の武装勢力がテロ活動をしていたことを知ることになる。シリアに駐留するトルコ軍がクルド系勢力と戦っていることを知ることになる。アサド政権とイスラム国が、シリアに住む人やクルド人になにをしたのかを知ることになる。今もなお、シリア難民が世界各地にいることを知ることになり、シリア難民がどのように生活をしているのかを知ることになる。あのウルファがシリア内戦時、イスラム国の人間がシリアへ入国するための拠点にしており、イスラム国が兵士のリクルートなどをあの街で行っていたことを知ることになる。わたしは、なにも知らなかったのだ。
ウルファでわたしが出会った人々は、トルコ軍の兵士を含めたトルコ人、クルド人、アルメニア人、シリア難民、みんなわたしにやさしく親切で、なにより温かかった。そんな彼らが、世界情勢や歴史、偏見により分断され、ときには争わななければいけない現実を知り、わたしはこの世界が歪んでいて、そんな虚しい世界を、世界を歪めている人間のエゴや強欲を絶対に許せないと思った。わたしは、悪を許さない。あの棺の前でした誓いを思い出す。
わたしのような人間にできることなどなにもないのかもしれない。でも、それを認めることも、ウルファの心やさしい人たちを見たわたしには、到底納得ができなかった。だから、意味がなくともこの世界の歪みに、少しでも波紋を投げかけられるように、なにか、なんでもいいから石を投げ続けたいと、ウルファを去ったあの日、心のどこか片隅で、わたしはそう思っていた。そしてなにより、わたしが出会ったトルコ人にも、クルド人にも、アルメニア人にも、シリア難民にも、あの少年と少女にも、世界の理不尽なんかで不幸になるのではなく、平和に暮らしてほしいと、そう思った。そのためになにかがしたいと、そう思った。
だから、彼に靴を買ってあげるまで 彼らになにかをできるまで、わたしは立ちどまりたくない。アルメニアで取材していたときも、ウクライナで取材していたときも、そう思っていた
ウルファでの出会いがジャーナリストになるきっかけであり、ウルファのアルメニア人との出会いが、後にアルメニアのナゴルノ・カラバフ難民を取材するきっかけになった。そして、その後ウクライナ、ブチャを取材するきっかけでもあった。ウルファはわたしにとって、すべての始まりの地だった。
世界の果てのあなたへ 序章③〜戦争への旅 戦場の隣の村クハァナツァクへ続く(サンプルとして、第一章の途中まで現在公開中です。少しでも興味があれば、読んでいただけたら幸いです)